前の日記に記したとおり、9/7(水)に行くはずだったところ、台風による天候不順で順延となり、1週間後の9/14(水)に行ってきた。東京を朝7時半に出発。森林局の人とは、13時に林の最寄り駅で待ち合わせだ。順調に行けば多少時間があるはずだから、蕎麦と川魚の料理で評判のいい店にでも行って昼飯を食って、少し休憩してから行く計画を立てた。目的地は、塩尻市の贄川(にえかわ)。亡き祖父の家は近くの奈良井宿という宿場町にあったのだが、隣の平沢や贄川は、ろくに訪れたことがなかった。今回は、奈良井宿は訪れず、平沢、あるいは贄川周辺を訪れようと思っていた。天気はよく、車も点検を終えて間もないので、スムーズ。
ところが、目当ての店の開店時間の11時に着いてみると、「本日臨時休業」の非情な看板が。やられた。商売っ気のない信州魂、健在である。もともと、亡き祖父がいて毎夏帰省していた頃から体験していたので知っているが、信州人は、人に対してサーブする姿勢というのが見えにくい。とっつきにくかったり、そうやって商売でもかったるいとなるとすぐ休んだり。夏も過ぎて秋の連休まではまだという平日に訪れると、この有様である。
諦めて、近くの「道の駅 木曽ならかわ」へ。ここは過去にも訪れたことがある。ちょっと小洒落たしつらえで、土産物も売っていれば、飲み食いする所もあったはずだ。
ところが。カフェは閉店しているし、食事処もまたしても本日休業。やられた。こんな所が休業では、寂れた贄川では飯を食うのはおぼつかない。隣の平沢にも期待は持てない。しかし、午後には山登りが控えていて、飯抜きという訳にも行かない。第一、時間を持て余してしまう。
となると、宿場観光の奈良井に行くしかあるまい。祖父は、母方の祖父で、祖父自体は好きだったし、子供時代の帰省は楽しい思い出しかない。しかし、母と俺との複雑な関係性から、そこを訪れるのは、複雑な気持ちがする。しかし、ここは行っておかねばと、車を向かわせた。
懐かしさと複雑な思いで、胸が締め付けられるような気持ちを抱えつつ、通りを歩く。何も変わらない。いや、子供の頃は、通りは普通のアスファルト道路で、電柱もあり、景観も統一されていない店の看板などもあったが、今は歴史的景観保存地区として、むしろきれいになっている。
町は、北東にある奈良井駅を起点として、南西へと上り坂になっている。上町へと歩いていくと、40数年経っても見覚えのある店が多い。その中に、帰省中時折蕎麦を食べに行った店が、まだあった。そこに入り、蕎麦を頼み、食す。
水のきれいな所の蕎麦は旨い。店内も余計なBGMもかかっておらず、静かで快適だった。店を出て、やはり祖父の家を見ておこうと、上町へと坂道を上って行った。贄川で悉く本日休業を食らったのは、祖父に怒られたのかもしれないなと思いながら。「お前ここまで来ておいて、顔を見せない気か」と。
祖父の家は、宿場町の上手にある。それより上は、商売らしい商売の店もほとんどなく、神社へ続くだけだ。
祖父の家は、まだあった。数少ない観光客が、写真を撮っていた。医者をしていた祖父の家は診療所を兼ねており、歴史的景観保存地区の中で、唯一石造りの洋館風の造り。なので、観光客にとっては珍しいのだろう。俺も写真を撮った。周りから見たら、俺もそうした物見遊山の1人に見えたことだろう。
住む人もいなくなった家。向かって右は、昔はガレージで、祖母の運転する車で祖父が往診に行ったり、俺を駅まで送って行ったりしたものだ。玄関先の松の下では、お盆には花火をした。松は大きくなり、緑眩しく生い茂っていた。自然だけが、過去を追い越していく。一応、「ただいま。これから林を見に行ってきます」と挨拶しておいた。
祖父の家の前を後にし、裏手に回った。昔、弦楽器の工場があった場所は、土産物屋になっていたが、訪れる人もなく、閑散。裏通りは生活道路で、よくありがちな山間の村、という感じだった。今は塩尻市に併合されたが、昔は楢川村という村だったのだ。用水路の水は澄んでいて、秋桜が咲き、のどかな光景で、かえって表通りよりも思い出が蘇る。
車に戻ったが、まだ時間がある。そこで、車を上手の駐車場に移動させ、そこから町外れにある神社に歩いて向かった。夏祭りではそこから神輿が出る。
この御手水場の横には、清流が流れていて、今も水は清らかだった。
神社で手を合わせ、子供の頃の悪戯を詫びておいた。