癌の放射線治療に伴う味覚障害からの復帰記録 その6+パートナーシップ13周年


久しぶりにブログを更新する。前回の日記がネガティブな文章で終わっていて、その後更新がないと「やはり病状思わしくない運びなのか」と思われたかもしれない。「鏡で口中を見てみたら、口蓋垂の横、治療をした箇所が下に下がっていて、空間があまり空いていない」と前回の日記に書いた件は、頭頸部外科の見立てでは正常。変な影もなく、縮小を維持しているとのこと。その時は「精査はまだですが」と留保付きのコメントだったが、さらに1週間してCT検査もあり、そこでも特に異常なしと。今は経過観察の身。

このブログ(とこのサイトの他のコンテンツ更新)を放置していた第一の原因は、去年夏以降位から急激に仕事が忙しくなり、また、自分の生活パターンが小さな円環に納まったような形になっていて、殊更外に出すようなものでもないと感じられていたからだ。

そうしているうちに、昨年11月、何とか誕生日を迎え、54になった。「年齢なんてただの数字」とうそぶいてみても、やはりそれなりに衰えは感じる。不具合が諸々出てくると、そこからの回復も遅い。不用意に撮られた写真で自分の写り方を見てぎょっとすることがある。首筋などは特に。日々、どこかの調子が悪く、加えて、幼少から患ってきたアトピー性皮膚炎が、この秋は特に酷くなり、何とかだましだましでも通常生活をできるようになったら、もう冬を迎えていた。こうして、加齢というのは、何かどこか常に不具合・不快を感じながらそれに耐える日々の蓄積なのだなと感じる。

ここは俺のスペースだ。人が見るとうんざりするような物憂いも、好きに書かせてもらう。

そんなこんなを背負いながら、しかし、パートナーじょにおのおかげで、気分も持ち直すことができたり、贅沢を経験させてもらったりしながら、何とか乗り越えているのだが、次々というか、連続的に襲う肉体的不具合と不快は、已むことがない。放射線治療に伴い、味覚を一旦ほとんど失ったのだが、今はほぼ味を感じられるようになってきて、食事を楽しむこともできるようになってきた。アイスクリームなど冷たい物を連続して食べていると、甘味が極端に感じられなくなってくるのはあるが、あとは口に何も入れていない時に妙な味を感じることがあるのも、その現象は、時に酸味であったり、時に薄めた醤油のようであったりするのだが、幾分軽減してきた。

と、思ったら、治療開始前に抜歯し、去年6月に治療後ブリッジを入れた左下の奥歯の付け根に、違和感が生じた。ブリッジ自体には不具合を生じていないし、飲食物が滲みるようなこともない。歯も意識的に丁寧に磨いているのだが、物理的に妙な感じがする。嫌な感じがして、恐る恐る鏡で見てみたら、その部分の歯茎の肉が極端に下がって、付け根が露出している。舌で触ると段差を感じていたのだが、これか。

放射線治療後は、思わぬ障害が出てくるとは聞かされていた。これをどうしたらいいのかは、歯科にかかって指示を仰ぐ他ない。明日、今年初めての定期診察の予約が入っていて、がん研頭頸部外科にかかる予定があるので、そこで話をしてみて、がん研内の歯科でまずは診てもらうつもりだ。

苦痛や不快は連続していて、それには時にイライラしつつも、何とか折り合いをつけているつもりだ。しかし、こうして新たなことが出てくると、本当にうんざりする。そして、不安に駆られる。こうしてでも生きていかねばならぬのも物憂いが、今のところ、生きるのを諦めたくなる程度からは程遠い。じょにおとの生活は日々快適で、2頭の犬達、プットニョスとノアノアとの触れ合いも楽しい。この日記を書き始めた時点では、新たな不快と不安に押しつぶされそうな感じだったが、歯「ごとき」で、生きていること全部を放擲するつもりはない。しかし、だ。次々と色々出てきてくれるものだと思う。

俺のこのところの暮らしは、自分の生理的側面からすると、鬱陶しいこと続きで、一人でいると気持ちが晴れないことが多い。

俺に関してはこんなクサクサした体だが、じょにおとは付き合って13年が過ぎ、14年目に入った。俺の、そんな有様を慮ってか、じょにおは日々明るく接し、生活を彩る様々な体験をさせてくれる。こんな内容の日記内に続けて書かず、別立てにすべきかとも考えたが、日々は連続・交錯している。その状態を記録しておく意味としては、ここにこうして書いてもいいだろう。

後ろ向きな気分で過ごす時間をなるべく少なくするために、日々体験していることの写真をここに載せておく。敢えてキャプションはつけない。これらは、単に物質的に気に入りな物があり、体験が楽しかったという意味の他にも、一つひとつが、二人で積み上げてきた生活のシーンだという意味がある。

これを見るにつけて、俺はまだまだじょにおに借りがある。俺は、提供された物事にふさわしい生き方をしているか? 俺は、じょにおに何を渡せているか? それを考えると、「もういいや」という気になってはいけないだろう。これは、かすがいであり、不快や不安に支配されて「もう嫌だ!」と投げやりな気持ちになった時、それを正すためのものだ。