DQマーガレット/小倉東氏を巡る個人的思い出


ツイッターで告知ツイートがタイムラインに流れてきた。新宿二丁目でLGBT関係の書籍を集めていたブックカフェ オカマルトが、店主小倉東氏(以下敬称略)が病気療養のため、今年5月末日で閉店するというのだ。

俺にとって衝撃的だったのは、その理由。小倉東が高次脳機能障害だとのこと。とても知的であり、頭が切れ(知的であるということと頭が切れるということとは違う。知識の蓄積はあっても、それと、自分の持っているそれを如何に活かせるかとは別の問題だからだ)、人間愛にあふれた人だ。近年、付き合いがあった訳ではないが、なぜこの個人的ブログにわざわざこのことを書くかといえば、今から遡ること20数年前の関わりから語らねばならない。

2000年もじき数年、という頃、俺は大学を卒業して数年、芽の出ない司法試験に見切りをつけて別の道で歩んでいかねばならないと思っていた。ところが、大卒後社会人経験もない人間をおいそれと雇う所は、いかに当時とはいえ、なかなかない。そこで俺は、以前に小説を書いて雑誌に投稿し入賞したことのある雑誌社が、編集者を募集している広告を見て、応募した。要項にあった自分のビジョンを書いた応募書類が社の目に留まり、面接を経て無事採用ということになった。

その雑誌というのは、ゲイ雑誌『バディ』(2019年1月で休刊)である。当時編集長が小倉東で、バディのキャッチコピーは「僕らのハッピーゲイライフ」だった。ゲイのことを、下半身の問題としてでなく、ライフとして丸ごと捉えてポジティブな姿勢で打ち出しているというのは、それまでゲイとは隠花植物的扱いだった(ホモという言葉の方がふさわしかったかも知れない)のが大勢であった風潮のなか、とても希望を持たせるものと、当時の俺の目に写ったのだ。「ハッピーゲイライフを、ハピアー、ハピエストにすべく」と、応募書類に記したのを覚えている。
といっても、当時のゲイ雑誌とは十分に下半身満載というか、下半身が牽引するエロ雑誌であり、エロ雑誌にカルチャーコンテンツが混在している、一種独特のメディアで、今のようにLGBTが可視化してきた時代の、誰にでもアクセシブルなメディアではなく、あくまで「同好の士」が隠し持つ、決して表舞台に出ない類の物ではあった。

バディの編集部に入って俺が担当したのは、それまで小倉東が担当していたカルチャー系記事だった。入れ違いのように小倉東はバディの編集部から外れており、編集長の名前も別の者に変わっていたと記憶している。小倉東は編集部の入るビルの違うフロアに、小さな別の編集部を、別員と立ち上げ、新雑誌を準備していた。しかしそこは、資本的には同じ出版社であり、新雑誌立ち上げの告知をなすのも、バディが頼りであり、販路もまたそうだった。新編集部はバディとの連携が欠かせない。しかし、出ていって新たなことをすることについて、旧バディ編集部との折り合いはよくなかった。小倉東自身は超然としていたようだが。そこで、ちょうどタイミングよく入ってきてしがらみのない俺が、旧コンテンツ担当を引き継ぐとともに、新雑誌の告知をバディに出すためのリエゾンとなった。

折り合いが悪かったという話ついでに暴露してしまうと、バディ編集部内で小倉東のことを悪く言う話も耳に挟んではいたが、それはくだらないいがみ合いとか陰口レベルの話で、実態でこれがけしからんとか、そういう話ではなかった。なので、そういう話を耳にしようとも、俺は小倉東には特段悪いイメージを持っていなかった。なので、必要ある時には小倉東の編集部と行き来することに、何の抵抗もなかった。実際、小倉東のいるフロアに行って打ち合わせをすると、お茶やお菓子を俺に出してくれて、感じがよかった。さくさくと話を進める小倉東は、人間的にも、仕事のやり方的にも、いい印象だった。

小倉東の準備は結実し、1999年、新雑誌『ファビュラス』が新刊成った。バディに載せる新刊告知記事は、俺が書いたのだが、原稿チェックをしてもらいに小倉東の所に行くと、小倉東は俺の原稿を見ず、「あんたの書いたのだったらそれでいいわよ」と、そのままOKをもらっていたのだった。

『ファビュラス』創刊号。体裁としてはバディの増刊という形だった。
『ファビュラス』創刊号。体裁としてはバディの増刊という形だった。

ファビュラスはゲイ雑誌ではあったが、ゲイを主体としたカルチャー誌とでもいった体の物だった。下半身事情をゲイ雑誌から切り離したそのスタイルは斬新で意欲的だったが、やはり販売は振るわず、あまり長く続かず休止に至ったと記憶している。しかし、ファビュラスが世に出たことは、日本のゲイヒストリー上、エポックメイキングな出来事には違いなかった。一方で俺はバディに留まり、全原稿の表現チェックや、カルチャー系記事の担当、表紙のディレクションなどをやって4年ほどいたが、他のスタッフからは高慢とも思われていただろうし(いわゆる汚れ仕事をしない)、能率を上げて時間ぴったりに働く俺のワークスタイルは社長に評判がよくなく、突如首を切られて終わりを告げる。

そこから先、俺は転職して一般企業を渡り歩き、ゲイ業界ではプライベートでクラブシーンに時たま出る程度になる。クラブでの出演は職業的にやっていた訳ではなく、パフォーマー・ダンサー(ゴーゴーボーイ)として声がかかった時に出るという気ままなスタイルだった。プライドパレードでもフロート(山車)に乗ってパフォームする機会があり、それらの活動で、別ステージ・別フロートではあったが、小倉東とは顔を合わせることも度々あった。否、そこでは小倉東ではない。ドラァグクイーン マーガレットである。時代は前後するが、本人のツイッターでの自己紹介文は以下のとおり。

まさに女王の名に恥じぬ、当代一のドラァグクィーン(ド派手な女装をするゲイ)。プライドはいかなる山よりも高く、業は七つの海よりも深い。その生きざまに泣く子は黙り、へそは茶を沸かす。

看板に偽りなし、ユーモアも込めたそのセンス、アティテュード、パフォーマンスのクオリティーともに圧巻の存在だが、クラブで会うと「あら、あんたぁ!」と満面の笑みでいつもハグをする、温かみに溢れた存在だ。

クラブイベント『The Ring』で、マーガレットと。2011年。
クラブイベント『The Ring』で、マーガレットと。2011年。

ドラァグクイーンとはdrag queenと綴るが、日本語でそのまま音をカタカナにするとドラッグクイーン。しかし、ドラッグというと違法薬物のdrugの方が一般的で、それと区別するためドラァグクイーンと記されるが、これも小倉東/マーガレットが先鞭をつけたように記憶している。

マーガレットとしての存在は毒々しいほどの華美と、周囲を歌舞く存在感で異彩を放っていたが、普段の小倉東は、小ざっぱりした格好に坊主頭で、いつも屈託なくニコニコしていて、少年のような目つきをしている。個人的にお茶などした時には、嫌いな人はこの人のどこを嫌いになるんだろうかと思った。

オカマルトは2017年開店と聞く。そのうち行ってみようと思っていたらコロナ禍にさしかかり、「そのうち」が実現しないままに今回の告知を知って、行かなかったことを悔いている。今後は家族の支援のもと、療養に務めるとのこと。ひとまずは療養で少しでもよくなること、そしてまたいつか会えることを楽しみにしていたい。またニコニコしながら「あら、あんたぁ!」と言うのを聞きたいのだ。

カテゴリー: LGBT