癌の記録 第2章、始まる


最初の癌の記録についてはこちらから)去年の12月初旬のことだった。仕事で急激なストレスがかかった直後に、手術で切除した左首のリンパ節痕が腫れた。数日して、定期検診があり(癌の手術以来、月1回受けている)、その時の見立ては単なるむくみ。マッサージよりも、よくストレッチをした方がいいとのことだったので、その時はストレス性・一過性のものかと思っていた。しかしその後も、やや小さくはなったものの、首の左右を鏡で見てみると、微妙に手術痕の方が膨らんでいる。

そして年も明けて1月12日、ちょうど予定されていたCT検査があった。検査の後、定期検診で頭頸部外科の担当医の診察で、その像を見てみると、再発の疑い濃厚、と。断面図を見ると、素人目でもわかるほど、半年前に受けた時の像よりも、該当箇所が大きくなっている。リンパ節痕もそうだし、加えて、切除した左扁桃腺の箇所も。深部なので、左扁桃腺は、表面を見たり触診では分からない。そこで急遽、3日後にPET-MRI検査を受けることになった。この経過はパートナーじょにおにももちろん話し、PET-MRI検査後の診察と治療方針を聞くにあたっては、じょにおも同席した。ちなみに我々は、初回の入院手術に先立ち、パートナーシップに関する公正証書を取り交わしており、互いの看護権者になっている。

結果は再発。MRIの画像では、CTで明らかになった2箇所にくわえ、左顎の下のリンパ節(これは前回切除の必要なく残っている)もだと。手術ではかなり大掛かりで皮膚移植の必要などもあり、外貌の大きな変化も免れないので、今回は放射線治療と抗がん剤投与を勧める、とのことだった。

PET-MRIの画像。担当医の許可を得て撮影。赤や黄色で反応しているのが分かる。(通常の箇所も多少は光るものだとか)
PET-MRIの画像。担当医の許可を得て撮影。赤や黄色で反応しているのが分かる。(通常の箇所も多少は光るものだとか)

前回、初めて手術をして取りきったと思っていたら左扁桃腺の奥が取り切れておらず、2度目の手術をするにあたっては、一旦放射線治療を考えた。が、その時は後遺症を考えて手術を選択した。その時には、手術で取りきれば大丈夫、とのことで、手術で頑張った訳だが、結局再発で放射線治療(+抗がん剤)になるなら、いっそその時に放射線治療を選択しておけばよかったか、という思いがよぎる。今そう思い返しても詮無いこととは言え。

何より、方々で聞く、放射線や抗がん剤による治療の辛さが、まだ体験していないうちから今の俺をうんざりさせる。俺は肉体的苦痛に滅法弱いのだ。くわえて、料理を作ったり食べたりするのが好きなので、そこに困難が生じると聞くと、一層暗澹たる思いがする。

が、するしかない。再発確定診断を受けたその日に入院の申し込みをし、放射線科に予約を入れて、昨日は当科や、その他歯科・採血などぐるぐると院内を巡り、治療のプロトコルを進行させた。歯科診断は、放射線をあてる箇所を厳密に決めるため、マウスピースなどが必要なのと、口腔内に異常があると、放射線治療後に治療にあたるのは、抜歯をした場合には悪くすると顎の骨が壊死するなど深刻なことも起こり得るので、不具合があれば予防のための処置が必要とのこと。

結果、照射する場所の近くにある奥歯の根元に炎症が見つかり、2日後には抜歯した。最初は歯科医も残すか抜くか迷う位の状態だとのことで、温存を考えたのだが、歯科医にかかったその夜に、放射線科の医師から電話があり、放射線科的には抜歯を勧めるとのことだった。夜遅くまで患者のことを考えて判断し、わざわざ電話をかけてきてくれた医師には敬服。ここは、放射線科に耳従っておいた方がいいだろう。抜いた後は、放射線治療後にブリッジになるそうだ。初めて自分の歯を失った。何十年か前に治療した奥歯の根は骨に癒着していて、ひょいと治療台に乗ったものの、気づけば骨まで削る、小手術のような体験だった。

その他にもうんざりする体の不調に関する予告がなされた。放射線照射により首の皮膚が爛れる、喉は火傷のようになってヒリヒリするので物が食べられなくなる可能性がある他、水も飲めないことになれば(短期間にしても)胃瘻の可能性がある、等々。胃瘻を告げられたことはショックだった。自分の中では胃瘻は重症も重症の人がするイメージだったからだ。これは重症なのか。今は、車の運転も、犬の散歩も、食事も、運動でさえ障害を感じないというのに。

癌の再発については(医者も想定外でとは言っていたが)「またか」という感情が重く、不安もある。いや、現時点では治療終了後への望みよりも、その方が大きいくらいだ。この時代・この国で暮らしていて、コロナは未だ先が見えず、社会的・政治的は問題だらけで良くなる傾向も見出し難く、果たしてそうした苦痛の大きい治療を受けてまで生き続けたいかというと、そこだけ見ればそうは思えない。

が、俺には長年歩んできたパートナーじょにおがいる。今月初旬に、じょにおとは12周年を迎え、13年目に入った。大切に育ててきたプットニョスとノアノアもいる。これは、俺の家族だ。毒親育ちで、最終的に家庭も崩壊しといったことを経験した俺が、その後に思いもしなかった幸運によって築いてきたこの家族と、俺は歩んでいきたい。

家族の肖像。右上から時計回りに、俺、プットニョス、ノアノア、じょにお。人が着ているのは、Marriage for All JapanのチャリティーTシャツ。
家族の肖像。右上から時計回りに、俺、プットニョス、ノアノア、じょにお。人が着ているのは、Marriage for All JapanのチャリティーTシャツ。
12周年記念に。コロナ禍ゆえ、食事はまたあらためてということで、家でケーキで祝った。
12周年記念に。コロナ禍ゆえ、食事はまたあらためてということで、家でケーキで祝った。

それに、じょにおの父母や兄弟も俺のことをいつも気にかけ、よくしてくれている。特にじょにお母は、癌の経験者でもあるので、心を砕いてくれている。俺は、実質的にじょにお家のファミリー(一族)になったのだ。そこにはつまり、ファミリーとしての責任もあるということを意味する。俺は恩に報いたい。そのためには生き延びねばならない。ファミリーの一員として貢献するなどとは、人によっては古い概念だと一笑に付すことだろうが、俺にとって「普通」のファミリーは願っても得られなかったものなのだ。
今、治療にあたって、自分がその治療に値する存在なのかを考えると、心許ない。が、じょにおは俺を支えることについて、何の疑問も躊躇もない。それどころか、全力、否、全力以上であたってくれている。「ありがたい」などという月並な言葉では、appreciationには足りない。これに応えるには、やはりこの苦難を乗り越える他ないだろう。

とはいえ、まだ再発確定の診断から1週間も経たず、日々気に病むのが実情なのだが、そんな俺の様子を見てか、突然じょにおが、揃いのリングを買おうと言い出した。それまで、何となく「してもいいけど」止まりだったことだ。それには、法的に結婚したらきちんと結婚指輪をしようという気持ちもそうさせてはいた、という事情はある。が、コミットメントリングをして、悪くはない。いや、とてもいい。病院の再診後、ジュエラーを訪れて、品定めをした。不要不急の外出自粛が求められている世の中だが、今はそのタイミングなのだ。自分達を前に進めるための、徴表としてのリングが必要。これを糧に、辛苦に臨み、乗り越えたい。

2 Replies to “癌の記録 第2章、始まる”

  1. ガンなんかに負けないでください。
    大切な人や生き物とすごす幸せな時間を勝ち取ってください。
    自分の友達は、癌から寛解し、あと少しで完治でした。ステージ4でしたが、今は元気ですよ。
    いっぱい笑って、いっぱい美味しいものを食べて健康に!
    あと、キノコやビタミンCとか良いそうです。
    特に舞茸です。Twitterでも、いっつも美味しそうな写真が載っていました。
    早く、完治しますように!
    心より願っています!

    1. Moiitoさん>
      ありがとうございます。なるべくポジティブな姿勢で、栄養などにも気をつけながら治療にあたりますね。ツイッターも見ていただけているようで、こちらもありがとうございます。

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