夏風邪に臥せって思ったこと


喉の調子をおかしくしたのが5日前の午後あたりから。折しも前日のジムでのワークアウトの筋肉痛が激しくて、こういう筋肉痛から風邪なんてのは嫌だなと思っていたら、見る間に調子が崩れた。翌朝ほうほうの体で行った医者には「夏風邪の引き初めだな」と言われたが、喉の調子をおかしくした原因は、胃もたれしながら飲んだプロテインを吐いてしまい、胃液で喉を荒らしたことだったから、ウィルス性ではないのは自分で分かっている。

ほぼ同じくしてじょにおは胃腸炎に。それから3日間、2人共調子が悪く、医者にそれぞれ処方された薬を飲みながら家で寝て過ごした。犬達はもちろん普通に餌を食べ、大小便をするので、その世話は「より調子の悪くない方」が受け持つ感じだったが、結構きつかった。

寝ていても起きていても体が辛く、しかし時の経過で良くなっていくのを待たねばならない状態で、睡眠も足りてしまった時が一番過ごしにくい。何より、昼間に大の男2人がそれぞれ寝そべっていると、社会から取り残された気になる。じょにおはそれまでぶつ切れ・不規則な休みしか取れていなかったので、たまの3連休ということでそんな気はしなかったかもしれないが、俺としてはそんな気分だった。

飼い殺しというか、死にながら生きているような状態、いつまでも同じ円環の内で過ごしていることはもうおしまい、と会社を辞めてから1年半余。その間、Web上には公開するべきことではないデューティーもあったものの、基本は好き勝手気ままに過ごしてきた。あまりにも静かで平和で、趣味のことなどしつつ、あるいは気が向かないと何もしないでいたりすると、解放と自由に寂寥と後ろめたさの影が差す。

ほぼ専業主夫状態でいて、趣味人を気取ってみたところで、そこにちんまり隠居するのは本来ではないのではと、チクチクつつく自分が他にいる。アーリーリタイアメントというと聞こえはいいが、ずっと逆境の中で40すぎまで生きてくると、負荷をかけられていないとかえって萎びる。筋肉のように。

たまに、えらいな、尊敬できるな、という人のドキュメンタリーをテレビで見たりすると、その逆境だったところを生き抜いてきたことは自分を維持してきたということだけのために使った気がして、成し得た外的な成果というのが自分に備わっていないことに、呆然となる。
自分は今まで何をしてきたのか?
特に何も。
自分がしたいことは何なのか?
さあ。
じゃあただただ平和で安楽に何となく日々をやり過ごしていることがやりたいことなのか?いや、それもまた居心地が悪い。

空疎な自分自身を鏡で見るのが嫌で、気を逸らすのが今やっていることの実体だとしたら、多分ここから先死ぬまでは、死ぬほど長い。結局何者でもない自分を、何者でもないままに終えることになる。
そしてそれは、確実に愛する人の献身や犠牲の上にあぐらをかいていることだ。パートナーシップには何が大事かと問われれば、愛情が根底にあることはもちろんだけれども、相手を尊敬できること、というのはキーだと思う。すると、その空疎をさらけ出して相手の上に寝そべることは、相手から尊敬を受ける行為なのか?

することは何にせよ、何かをやらなければ、ぽわんとしたこの根無し草は、流れて藻屑となる。そして、あれこれ手をつけてそれなりという自分はやはりそれなり止まりだと今まで思ってきたが、それなりよりも下に、確実に転落していく。空疎な自分なりに、できることを自分に課せられたこととして心底好きでもなくてもやっていく、そうしたことでしか空疎は埋まっていかないのではないか。

こんなふらふらしている、大きな大きな犬のように手がかかってしかも犬よりも役に立たない自分に、文句ひとつ言わないで持ち上げ支えてくれているじょにおには、ささやかである自分がささやかに生きるミッションとして仕事をすることが恩返しになる。臥せっている時には犬達の世話は辛かったと書いたが、しかし犬達は飼い主の不調を察知して、そっと寝そべって寄り添っていてくれて、役に立った。

退屈だろうに、そっとどこか俺に触れながらベッドで寄り添うプットニョス。
退屈だろうに、そっとどこか俺に触れながらベッドで寄り添うプットニョス。

犬はそこにいるだけで価値がある。飯を食い、寝ているだけで価値がある。しかし、人間は犬ではない。

そろそろまた、動き始める時だろう。何ができるのか分からない。
そんな時、普段の生活では意識していない年齢というものが、世間では不動の国境線の如く線引をしているのを知る。が、それでこのままではもっとその線引で生い茂る緑から向こうへ追いやられてしまう。社会という活躍のフィールドはこちら、お前はあっち、と。

結局、死にながら生きている円環から脱出したつもりで、また今度は生きながら死んでいる。自分を生きるには、やるべきことが必要だ。やれることをやってみようと思う。その境遇でやるべきことをやれば、次への扉が開く。今までそうしてきて、少なくとも私生活では幸せを手に入れた。次への扉のための境遇を今度は自分で作るしか、自分の生を進める方法はない。

やりたいことがなければ、傲岸不遜な言い方だが、それならやってもいい、興味がなくはないと自分が思えることに身を投じるべきだ。ここで「◯◯をすることになりました~!」などと境遇の変化を脳天気に報告できる時が、そうすぐ訪れるほど世間は甘くなかろうが、なるべく近い日にそこへたどり着ければ。

「仕事で自分を活かそう!」とキャッチコピーで謳われるような単純な意味ではなく、放っておくと生きながら死んでゆく自分を「生かす」のが、その実、仕事というものなのだろう。人が生業を受け入れて生活するというのは、食い扶持という意味だけではない。