過剰接客と相互監視社会


この前、じょにおとの付き合い6周年の記念に、レストランに食事に行ってきた。「ここがもう少しこうだとよりいいな」という点もあれど、全般としては、おいしく、居心地よく、接客も丁寧、大変良い時間を過ごさせてもらって、総じて満足だった。

料理のうちの一皿。絵画のよう。画像をクリックでレビューページへ
料理のうちの一皿。絵画のよう。画像をクリックでレビューページへ

そこで食事を終えて店を出ようとすると、店外まで見送られて、シェフも挨拶に見え、焼き菓子のお土産をいただいた。最近はシェフが挨拶するのはトレンドなのだろうか、国内外問わず、ちょっといいレストランに行くと、そうしたことにまま出くわす。

大変丁寧なことだし、上記のレストランの対応が余計とかいけないとかいうのでは決してない。決してないのだが、時々、えらく緊張の面持ちでシェフが出てきたり、様子を窺うような顔で出てきたりするレストランがあると、少しかわいそうに思う。

繰り返すが、以下はレストランでの接客を契機として考えたことで、上記のレストランに当てはまるものでは決してないということを覚えておいて読んでほしい。

時に、丁寧すぎる接客が、ともすると、決まりきったシークエンスとして重要性や特別性を失っていたり、「SNSやレビューサイトで悪口を書かないでね」という抑止的な役割を果たしているのだろうか、と邪推したくなることがある。
最近はネットで口コミを拾いやすくなった反面、文句があるとすぐレビューやSNSに書きなぐってストレス発散しようとする人がいて、ちょっとした文句はあっという間にすぐ拡散されるからだ。

SNSやレビューサイトが、まるで相互監視社会の秘密警察のようなチクリ役になっているのは、社会のあり方として非常に居心地が悪い。もちろん、不公正や、問題主に訴えても相手にされなかったような場合に草の根的にパワーを発揮するというメリットもあれば、秘密警察的役割はその反面としてのデメリットでもあるわけだが、受け止める側は、2つのことを頭に置いておいた方がいい。
すなわち、まず、世の中にには自分の意に染まないこともままある(むしろその方が多い)ということ。そして、批判する人の側にも批判のベースになる知識が浅かったり、誤解があったりというケースが少なくない、ということ。

そういう居心地の悪い相互監視社会は既に形成されていてしまっていて、そこでトラブルを起こさないためのいわば転ばぬ先の杖が過剰接客であるとするなら、それは悲しい。
居酒屋の店員が何も膝まづかなくてもいいし、ドラッグストアの店員が釣り銭を渡す時両手で購入者の手を包まなくてもいいと、俺は思う。ブティックでした買い物は、よほど持つのが大変で重くなければ入口まで自分で持って出ればいいし(引き渡しにおける危険負担という別の観点からすれば店側にはその方が有利だろう)、年に数回しか行かない店で何も名前で呼ばれなくてもいい。

特別扱いとは上級顧客にいついてほしいという店の計らいであるというのは、誰しもが認めるところだろうが、それは金払いの面はもちろん、客が店に対して敬意を払うとか(客「」店「」? 当然! 気分の良い空間・時間を過ごすためにはそれにふさわしい格好をするとか、立ち居振る舞いのマナーをわきまえているとかは、客にも当然要求される。それが誠実な関係性というものだ)、いい関係を築いていてはじめて店側から「自発的に」提供されるものであることを、丁寧ニアリーイコール特別な接し方と誤解している向きがある。それは、店も、客も。

その誤解がいつの間にか不満にすり替えられ、客の不満ははけ口としてのネットワークに吐き出される。店は商売的に評判を落とすのが怖いから、予防線を張る。すると、特別な計らいの敷居を下げて、「とりあえず」提供しておけばいいという風になる。かくして過剰接客の出来上がりだ。

もちろん、最初に来た時から「この客には来てほしいな」「自分の店のことを他に広めてほしいな」という客もいるだろう。その気持ちの表れとしての丁寧な接客ならば、された方としても嬉しい限りだが、形式的な予防線としての過剰接客だとしたら、虚しい。「出すぎず、欲かかず、お互い様の精神」は、客も店も、もう一度見直してみる必要があるんじゃないだろうか。