生きているとかいないとか


(かつて俺と暮らし、AIDSで急逝した元パートナーTの命日12月25日を迎えて)

元パートナーTの命日がまたやってきた。寒い12月は、Tの最期をいつも思い起こさせる。時は悲しみをやわらげていくとはいうが、鮮烈で突然だったTの死の印象が俺に与えた影響を思うと、それがやわらいで行くには、時の歩みはゆっくりすぎる。いや、もうしばらく経つのにやわらぎ方はゆっくりだ、といった方が正確か。あれから、いろんなことがあったというのに、そうしたことが自分の身に積もっていっても、あの時のことが覆い隠されたりはしない。

今年、震災があって、その瞬間は思わなかったこと。それは、もしTが生きていて、まだ一緒にいたなら、どういう風にしてあの日落ち合っただろうか、ということ。現実では、あの日はじょにおがいち早く行動して、俺を車で迎えに来てくれたので、俺は帰宅困難者にはならなかった。それからの日々も、じょにおがいたからこそ、不安の連続も小さく抑えて暮らすことができた。それがTとだったら、どうしていただろうか。
今になって、暖かな部屋の中から冬の寒い空を仰ぎ見て考えた。豪胆に見えて繊細だったT。俺はTを、少しでも守ってやれただろうか。集中治療室に入ってからのTに俺がしてやれることは、顔を見にいってやることぐらいしかなかった。あまりにも無力だった。そんな自分がそのままで、もしTもそのまま生きてそれからを生きていたら、どうだったのだろう。

でも、そんなことを考えてもしょうがない。もう、Tはいなくなってしまって、しばらく経つ。俺には愛するじょにおがいて、毎日幸せに暮らせている。俺にとって、Tのことは、Tと生きたこと・Tが死んだこと共、大きなライフイベントだったけれども、だんだん、だんだん、過去になって行き、そして俺は今を生きていく。職も住んでいる所もライフスタイルも変わり、自分では自分の中で一番大事なところ、人として大事で見失ってはならないことは違わないように心がけてはいても、変わってゆくことは確実にある。

数日前、とある友人と電話で話していた。Tと同じHIVポジティブのその人が、治療に関する話の中で、言った。

「JOEさん。俺、まだ、生きていたいんですよ」

と。その言葉は、重かった。生きていたい、という言葉は、生きていることの困難さを感じて初めて口に出る。矛盾に思われることだが、いくら「生きていることは大事で幸運だ」と日頃言ったとしても、その言葉の重みに人が気づく機会はあまりない。

俺は覚えている。Tが生きたこと、Tの瀬戸際、体温を残して意思のなくなったTの体、Tの死を知らせるTの父からの電話(Tは病院で死後、Tの父に亡骸を引き取られて故郷に移動された)、電話を聞きながら仰ぎ見たクリスマスの寒い夕方の空の高さ。そして今、震災を経て、まるでおおごとなどなかったかのような優雅な暮らしをしていて、毎日が愛と笑顔に溢れていても、生きていたいと願い叶わなかったTや、電話で聞いた友人の生への願望も事実であることに相違ない。今年また一区切り、Tの死を思い、今を生きる人を思う。