変な応援CM


震災以降、有名人や起用イメージキャラクターに手書きボードを持たせたり、短文メッセージを言わせたりする企業広告が多くなったが、ああいうのを偽善というのだろう。イメージ広告は所詮イメージ広告にしかすぎない。「うちは偽善じゃありません、支援を実際にしています」というのなら、企業イメージを高める目的でどうせCMを打つのだから、その支援内容を箇条書きでもいいから出せばいい。あれではまったく伝わらない。出演者も出演者で、出演料を寄付するとかいう話はあまり聞かない。効果も疑問。被災した人はもう頑張りきっていて、疲れている。あれを見ていて「ああ、がんばらなくっちゃ」とさらに奮起される人はもうほとんどいない気がする。被災していない人にしても、CMを見ていいなと思うのは、よほどのほほんとした人だろう。

そういえば、節電節電という割にはずっと流され続けている山手線や中央線のドア上にある液晶ディスプレイ広告だが、あれにANAのそういう類の広告が流れていて、卓球の福原愛が出ていた。福原愛自体、あのおかめがふてくされたような不器量が好きになれないのだが、そのキャプションで、東北の我慢強さがうんぬんと書いてあり、続けて、東北のDNAが流れていると出てくる。DNAは流れない。流れるのは血である。「組み込まれている」ならまだ分かるが。急ごしらえで安易に作るからそういうお粗末なことになるのだ。おかめ顔と相まってひどい印象の広告だ。それに、広告としてのクリエイティビティーもまったく感じられない。

企業広告が手法を誤る要因は、企業という不特定になると、中の人が見えなくなるがために責任の所在が曖昧になり、「こんなもんでいいだろう」 とエイヤでやってのけ、その結果として考えの浅薄さから出たものがどんなに無駄でかつ有害でさえあるかを顧みなくなることにある。どうも日本人というのは、一人ひとりはいい人が多く真面目なのに、集団になると方向性を誤ったり、狡っからい(こすっからい)方法で人をごまかそうとする傾向がある。そんな日本人のアノニマス化した場合のネガティブな性質は、戦時中の日本軍の暴走や、原発の事故対応の後手後手を言い訳で逃げようとすること・情報開示の遅さと、構造が似ているように思われる。組織に個人が逃げこんでいるのだ。

日頃、俺は仕事で自分の会社や、会社グループのWebコンテンツを企画制作しているが、表に出た時にそれがどう受け止められるのかを考えてやるようにしている。その時、楽な仕事をしようと思えば、定型化した表現を並べて再構築するだけでパパっとやれたりもする。とにかく埋め草がほしい、何か紹介しないことには始まらないから文章の体裁としてまともであればそれで十分という時に、それで切り抜けることもある。しかし、やりながら、「ああ、言葉が上滑りしているなあ」と思いながらやってしまったものは、やはりそれだけのものでしかない。人には伝わらない。人に伝わるということは、言葉やビジュアルが認識されるということではなく、認識の結果、受け手に浸透し、受け手が納得や新鮮な驚きをもって自分の中にそれを取り込んで、受け手の中の感覚を喚起するところまでやらなければ、伝わったということはできない。話しは元に戻るが、イメージ広告などというものは、イメージを向上させることにあるのだから、相手がいいなと思うところまで浸透して喚起するものでなければ、その用をなさないのだ。その点、最近のあの一連の手垢にまみれた薄っぺらいコピー手法のあれは、まったくもってだめだ。

ああ、今日も憤ってしまった。現状の世の中に不満を持つようでなければ進歩はないからこれでいいのだと自分に言い聞かせてみるが、血圧が上がって健康に良くない。