I Don’t Want Nobody To Know (Don’t Mention My Heartache)


タイトルはナタリー・コール”Don’t Mention My Heartache”(アルバム”Good to Be Back”に収録)から。

クリスマス、楽しい飲食記事など書いたが、毎年自分には記しておかねばならないことがある。

2003年に当時のパートナーTがAIDSで死んで以来、丸7年が過ぎた。7年というと、もう随分前のことのようだ。あまりに短く、向こう見ずとも言える人生を疾走して27歳で人生の幕を閉じたTは、生前「太く短く生きる」などと言っていたが、やはりそれは短すぎたと思う。ふと、今もってTが生きていたら、自分はどんな人生を送っていたか、考えてみると、惜しんでならない頃はTが横にいる様がありありと想像できたのに、自分は健康で、じょにおとの幸せでリアルな生活を送っていると、7年経ったTがどんな風貌で、2人どこでどうやって暮らしていただろうかというのは、想像しにくい。生きていたそのままのTなら想像できるのに、人の時が止まると、だんだんその人はリアルな時に追いつけなくなってくる。

Tは、青森出身だった。たしかTの一周忌に、葬式以来2度目に実家を尋ねた時、新幹線が通るからTの実家は立退くかもしれないということを、Tのお父さんが言っていた。その当時から路線の計画変更があったのかどうかしらないが、今年、今月になって新幹線の新青森駅が開業し、今頃Tの家族はどうしているだろうかと、新青森駅の宣伝を見るたびに思い出す。だから今年は秋頃から、時と共に遠くなってゆっくり小さく溶かされていくはずのことを、逆に自分から掘り起こして考えることもたびたびだった。

Tには2人の自衛隊員のお兄さんがいて、お父さんは当時自衛隊を定年退職して、どこだかの警備をやっていたと言っていた。昔、社会科の勉強で、東北地方では農業離れの就職先は自衛隊が多い、などと習った記憶があり、新幹線が通るから立退く(かもしれなかった)という家の立地状況なども併せ考えると、Tの家族は、もしそれがもっと昔なら、三男坊が病気で死んだということも、厳しいながらも堪えて受け入れざるを得ないような社会的風土に生きる家庭環境だったのかもしれない。

今でも、朴訥とした青森弁で話すお兄さん達やお父さん、1周忌に出向いた時に、法要前に家で出してくれた昼食のラーメン(遠来の客に出すのがそれというのは、そういう家庭環境だったのか、本当に素朴だったのか、それとも京都のぶぶ漬け談のような表現だったのか、わからないが、少なくとも嫌な感じはしなかった)、近くの田んぼの先にある先祖代々の墓があたり一面雪で真っ白な中に黒い影を浮かび上がらせて立っていたこと(1周忌の墓参りのために雪かきをしてくれていて、墓だけが雪をかぶっていなかった)などを、断片的に思い出す。それと、青森駅を出る帰りの列車から見た、雪に白く烟る青森ベイブリッジの、寒々しく輪郭のぼやけたランドスケープも。

こういうことや、今でも俺の胸にこびりついている「もっとできることがあったはず」という慙愧の念、死の原因になったAIDS起因の脳膿瘍の術後に集中治療室で見たTの目、ある日見舞いに行っての帰り際、喉に管が通され会話ができないので俺の掌にTが指で書いた「おやすみ」、そんな事々はいくら言葉にしてみても、人に伝えきれないし、人もそのことの本当の意味を分からないだろうし、伝えてもらっても迷惑でさえあるだろう。これは、とてもとても個人的で、孤独で、俺の中の奥深いところに長くて絡まりがちな糸で吊り下げられていることで、それをたぐることは俺以外の人間はどんなに近い人間でもできず、俺だけがそっと携えて行くしかない。

だから、Don’t mention my heartache. I don’t want nobody to know.