朝の赦し


寝る前、少しばかりワインを飲みすぎて迎えた朝。頭が起きるのが遅く、電車で読むつもりの本を書斎に忘れてきてしまい、西武新宿線に乗っている間はぼんやり過ごして、電車を乗り換え、山手線からさらに中央線に乗り換えた。車内は混んでいて、四谷になって若干人が降り、移動しようとしてふと視線に気づく。見ると、以前接触のあった男がいた。その男は、あまりにお調子者で、頭はプロセッサーの性能という意味ではすこぶるいいようだが、自分の欲望のままに行動する様がイライラさせられる類の人間だったからだ。確か知り合った時には、遠距離で長年付き合っている相手は別にいて、しかし俺と寝たがっており、その事実を言わずに寝技に持ち込んで、しかもセックスの最中にHIVポジティブだと告げてきた相手。病気の感染云々を除いてもその都合のよすぎる振る舞いに、ある日我慢がならなくなり、おまけに予防措置を積極的にしようとは思わないという野放図な発言があって決定的に頭にきて、ふっつり切れた相手だ。

男に背を向けて、ようやく起き始めた頭で携帯電話をいじっていると、メールの着信。背中側にいる、その男からの着信だった。まだ俺のメールアドレスを控えていたとは。「久しぶりです。何とか元気にやってます」という短信だった。返信しようかどうか、迷った。確か件のいきさつの後、どこか街なかですれ違ったときにも「お元気そうで何よりです」というメールが来たことがあったが、その時には「何がいけしゃあしゃあと『お元気そうで』だ、お前のおかげで俺の『お元気』が欠損しかねなかかったんだぞ」と腹立たしく、そのメールは無視した。

さっきちらりと見た奴の顔は、健康そうで、しかし日焼けはしておらず、白く輝いていて、一時出ていたカポジ肉腫の痕もなく、見た目は壮健な青年そのものだった。電車は水道橋を過ぎて、もうじき御茶ノ水に着こうとしていた。朝の光は白く、沿線沿いの草から車窓に漏れて、ちらちらと携帯電話の画面を光らせた。俺は、メールを打った。
「そうか。よかった!」

御茶ノ水で席が空いて座ると、奴はその斜め向かいに座った。こちらをそう窺う気配もないが、またメールが来た。「相変わらず男前ですね。元気でやってください」とのこと。俺はさらに返信した。
「ありがとう。元気で。あまり無理せずに」
電車は神田を過ぎて、東京駅に入ろうとしていた。周りの人がガサガサと降り支度を始める。俺も降りるために携帯をポケットにしまおうとしていたら、さらにメールが来た。「もし嫌でなかったら、またご飯でも食べましょう」

人を非難し続けるのは、力を使う。そして、自分がその人を非難し続けるほどの資格があるのかどうか、疑問に思うこともある。赦す、というと、いかにもこちらが上段に立って緊縛から解放してやる立場に見えるが、実は、赦すことは自分の頑なを悔い改め、人との関わりで生きていくことをより易化するための、自分にとってのことではないだろうか。そう考えたことが、メールに返信をさせたのだが、少なくとも今は、そこまでで十分だ。俺はそのまま最後のメールには返事をせずに、携帯電話をしまい、電車を降りて、改札口へ向かった。男の顔は、見なかった。改札口を抜けて、もう一度携帯電話を取り出して、メールのボタンを押した。そして、受信したメールを削除した。歩道にアブラゼミが仰向けに転がっていた。陽は高くなりつつあり、冷たく曇っていた夏の前半の贖罪としてか、晩夏の暑さをまだもたらす気であるようで、ビルのガラスを眩しく照らしていた。

今までは、こう考えていた。時々、非常に傲慢なHIVポジティブの人に遭遇することがある。自分は病気の被害者で、「何故自分がこんなことに」と、自分の悲劇についてしか考えず、それどころか、他人がまた不運に見舞われてもかまわないとさえ考えているような人がいるのだ。後先考えずリスキーなことを繰り返した人に限って、感染を自分の行為の帰結であるとは考えず、「運が悪かった」と考える。その反省のなさで開き直られると、どうにも見ていて複雑な気分になる。病気は病気でしかなく、そこに倫理観を押し付けてセックスで感染したことを非難するようなことは不当極まりないし、誰しも心の緩みや隙があって、その場で防御策を取れなかったがゆえに病気に感染するということはままあり得る。だから、ウィルスを持っている人はよりよい健康状態で・そうでない人はよい状態を維持し、HIVを持っている人も持っていない人も共生することを基本としたいのだが、あまりに顧ない人、そして他人に危険を持ち込む人は、もうちょっと考えるべきことがあるんじゃないかと。

しかしもう一段掘り下げて考えると、本当に行為の事理弁別がつかない人というのは、ほとんどいない。病気で苦悩したり、先々のことを悲観したりといったことに見舞われた人が、「私が悪うございました」と、いちいち自分の感染を悔悟の念とともに告解する必要はないのだし、(感染させたのなら悪かったかもしれないが、感染したことが罪ではない)自分を保つためには、気を張ってあたかもそれが何でもないことのように振舞うしかないこともあるだろう。不遜に見える態度が、自己防衛の手段だったりもするものだ。そこを、少し酌み入れて考えてもよいのではないか、と、最近は思っている。