生まれた日は思い出せるのに死んだ日は思い出せない


今月は仕事も重要なミッションがあり、プライベートでは引っ越しもして、ここまでバタバタ過ごしていたら、父の命日をすっかり忘れて通り過ぎた。といって も、そもそもあまりはっきり日付を覚えておらず、確か9日辺りだったはずだが、何回覚えようとしても、意味の薄い日なので、頭に入らないのだ。

鬱陶しい人についての関係解消の日付は、何故か昔から覚えられない。嫌な別れ方をした人との別れの日とか、いい感情を持てなかった人の死んだ日とか、そういった日のことだ。その代わりといっては何だが、そういう人達の誕生日は何故だか頭にしみついていて、何日か前から思い出していたりする。

父のことを何故思い出したかというと、今日ドラッグストアで買ったミネラルウォーターの賞味期限が父の誕生日と同じだったからだ。「そういえば死んだ日はいつだったっけ」と振り返って、今月ではあるがとうに過ぎていたことに気づいた

しかし、死んだ日を覚えていないのに生まれた日を覚えているのは、かえって厄介なものだ。何故なら、それはその人の生をより意識させることになるからだ。

この前、海に没したエジプトの遺跡を集めた展示会に行ったのだが、その中に文字が意図的に削り取られた石柱が展示されていた。その時代には記録抹消刑があって、処刑された後に記録さえも残さないという処遇で、虐殺などの重罪を犯した者に適用されるのだという。生きたことの記録を消すことが生きていた人に対する刑罰だとは、厳しいものだと思う。

生の存在意義は、その人が成したこと=他人の意識の存否に関わらない範囲のことで認められるものだと 考えるのが大抵の場合だが、他人の意識内に存在することもまた生の証しとするならば、後者の意義を消してしまうのだから、生の記録抹消とは、何とも峻厳な 振る舞いだ。記憶と生とは密接な関係にあり、死の記憶よりも強力がゆえに、自分自身にとって生きた日付の方が死んだ日付よりも遺っていがちなのかもしれない。