身の軽さに思う


昨日から始めた引っ越しの荷造りも、今日で8割方終わってしまった。今日は仕事を終えて夕飯を食べ、15分だけ寝てジムへ行ってワークアウトし、10時半頃から荷詰めを始めた。

俺の部屋は元からあまり散らかしてはおらず、物も努めて持たないようにしているので、作業も滞りなく進んだ。しかし片付けながら思うに、そんな2日3日で形がつくような量の生活物でもって生きていけるとは、俺の人生の何とコンパクトなことかと。

元々、それは5年半前に死んだ元相方Tと、最初に一緒に暮らしていたことに起因している。2人暮らし用にあれこれ新品を揃え、結構な金額の投資をしたのだが、その後Tの会社が破産し、一旦Tは実家に引っ込むことになって、共同生活はそこで解除された。その時に、買い揃えた物をTは実家に持っていけないからと、かなり気前よく処分してしまい、俺は元から持っていた物+αくらいで別の所へ。

1年してまたTが帰京し、同居を約したところで死んだので、物を揃えることに無常感・虚無感を感じ、所有物を削ぎ落として、自分の身の振りをいつでもどうにでもできるようにしていた。そうしてミニマイズされた所持品と、シンプルな部屋で、物に頼らない・物をできるだけ持ち込まない生活を心がけた結果が今の状態だ。だから、年齢的にはもっと色んなものが溢れていてもおかしくないのだが、いわば今(現世)は仮の庵とばかりに物に対して禁欲的な姿勢で生活していて、たまに必要になるとどんと買い込むが無駄な物は買わない・置かないことにしていた。

そうしながらいつも疑問に思っていたのは、いつでも動けどうにでもなるとしても、じゃあ次にどう動いてゆくのか? ということだ。目的地も定まらないのに、身を軽くしていることの無意味を感じていた。

そんなところに、今回の引っ越しの話は来た。自分の軽さに意味を与えてくれた訳だ。自分がどこに向かうのか、少なくとも地理的・愛情的な面では、方向づけがなされ、用意が功を奏したことになるわけだ。流浪彷徨の日々は、今少し、曳航されて係留に向かう。