人の美醜について


不意に頭に浮かんだ、少し悲しい過去の出来事がある。とある人とオンラインで知り合い、何回かやり取りして、それじゃあ会いましょうということになった、前日のことだ。やり取りは丁寧で適切で、期待を抱いていたのだが、こんなメッセージが来たのだ。

直前になってすいませんが、俺は禿げで不細工です。その場で断ってくれても構いません。会う気がなくなったら、このままの文面でレスしてくれれば結構です。

一字一句これと同じではなかったかもしれないが、こんな文章だった。俺はその時どうしたか。そのまま引用で、返信したのだ。しばらくして、「お手数おかけしました」と、さらに返事がきた。

なんだか、悲しい気がした。そんな文章を送らねばならない気持ちを考えて悲しかったのか、会ってがっかりされた経験からそうやって断り書きをしてから会うことにした彼の境遇を思ってやり切れなかったのか。あるいはその両方だったろう。

かといって、その時実際に会っていれば、きっと会った途端に自分の顔に落胆の色がさすのを相手に見せて、やはりお互い厭な気がしてしまっただろう。だから、きっとそのまま返信したことは、正解だったとは思う。しかし、何かその時から、澱のようなものが心に溜まっていて、何故自分が美に執着するのか、醜い人を見た時に嫌悪するのか、美しい人を見ても、そうでない人を見ても、疑問が常に頭に浮かぶ。

しかしながら、人は見た目だとも思う。それは、何回か過去に言ったように、自分の自己表現として外界との接し方の一環という意味で、外観には責任を持たねばならないからだ。

では、人の美醜とは何だろうか。思うに、美とは規範に対する僅かな逸脱または破綻であり、醜とは大きな逸脱または破綻である。美人であったりハンサムであったりとは、好ましい概念的な平均像が頭にあって、それ自体は規範概念であって、美そのものではない。その規範、もしくは平均像から僅かに逸れた箇所が特色、即ち存在価値=美を与えるのである。

もし、シンディー・クロフォードに口元のほくろがなかったら。もし、モデルのタイソン(過去にポロスポーツなどのイメージモデルを務めた黒人男性モデル。ブリトニー・スピアーズの”Toxic”のビデオにも登場する)の目のスラント具合が普通で、唇がそれほど厚くなかったら。それは彼女や彼が、凡庸に埋没することを意味する。つまり、美ではなくなる。

対して、美しくない人は、規範概念から「大きく」破綻している。モデルケースは挙げないが、道を歩きながら人の顔を見ると、大抵は逸れすぎている。逸れすぎていると、その人達を、美の規範概念になぞらえて見るととはできなくなり、醜と思われるのだ。

そう考えると、何故美醜が大事に思われるのかというと、規範を守ろうとする、実に教育によって植えつけられた考えが自分にあるからなのではないか、と思うのだ。完璧に規範を守ることなどできない。しかし規範に沿おうとはし、また逸れ続けるというジレンマがある。そこで大きく逸れた人達を見ると、規範が守られていないことに嫌気を感じるのではないか。

しかし、規範に沿おうとしても、どうしようもない人もいる。そんな人がその破綻を如何に諦め、寄り添って生きていかねばならないのかを考えると、悲しいのだ。最初に言った、オンラインで知り合ったが会わなかった人のようなケースがそれだ。諦めは、悲しい。美醜において乗るか反るか、それは諦めるか諦めないかでもあるのかもしれない。

注:美醜に内面が影響するとか、内面の影響なしに美醜が形作られ得ないとか、そういうことはファンダメンタルなことで、ここで今更言及したいことではない。言いたいのは、コアとしての実物のない造形的な美の規範概念に対し、実体の美はそこからわずかに逸れたところにあり、その概念を取り巻くわずかな薄い層の美の範疇外に入らないのが、醜形として判断されるのではないか、という、造形としての美醜の判定メルクマールについてである。