短編小説『ローレットの傷痕』


「この傷は嫁に怒られるなあ」
ベンチプレスをやっていた上下黒ジャージの男は、起き上がると掌を自分に向けて、薬指にはめたリングの腹に見入っている。
「結構いっちゃってますねえ」
男の補助をしていたトレーナーは、気の毒そうな表情を造って一緒にその傷に見入る。バーベルシャフトのグリップ部に施された滑り止めのローレット加工は、男の結婚指輪の裏側ど真ん中に、噛み痕のような傷を残していた。

隣のベンチでそのやりとりを聞きながら、浩司は次のセットを始めた。グイとのしかかる90kgを6度胸から垂直に押し返して、バーベルを支柱に戻す。その右手薬指に先週まであったホワイトゴールドのリングは、もうない。といっても、リングが傷物にならないよう、いつもトレーニングの時にはリングをはずし、革紐に通して胸にかけていたので、トレーニング中にリングは浩司の指にはいつもなかったのだが、今は胸にもリングはなく、その代り指に残るのは、バーベルシャフトの鉄錆の赤茶けた色移りだけだ。
明るく涼やかな銀白色が気恥ずかしさを覚えるホワイトゴールドよりも、暗褐色に変わり、多くのトレーニーの筋肉に痛みと、痛みを超えれば成長があるという喜びとを与えてきたバーベルシャフトの鉄の方が、自分にはふさわしい。浩司は、ローレット加工のダイヤモンド模様が描き出す細かい突起のざらざらを、愛おしむように撫でた。

あのリングはもう換金されただろうか。やはり売る時には、2本一緒に売ったのだろうか。それとも和成の家にまだあるだろうか。
リングを右の薬指から外してそっとカウンターテーブルに置いた時の、無機質な軽い感触を、浩司は今も忘れない。付き合って15年の証にと、和成からリングを渡された時から、無骨な自分の手にはそぐわない気がしていた。ジムでは傷がつくから外して胸にかけておくといい、と一緒に渡された黒い革紐は、汗が染み込んでもそのまま使い続けて白味を帯び、不潔だと和成から時々怒られたものだ。

和成は、洗練された男だった。頭がよく、ITの仕事をそつなくこなし、交友関係が広く、バーでもクラブでも人気者で、華があった。お揃いでリングをしようと言われた時、リングの選定は和成に任せた。どこのメーカーのがどうとか、浩司にはよく分からなかったからだ。ブティックに出かけた時も、「ちゃんとした格好をして」と和成から言われて和成の選んだ服を着て、眩しいほど瀟洒な店内のしつらえに居心地の悪さを感じつつ、おずおず右手を出してサイズだけ確認すると、一刻も早く会計を済ませてくれないかとじりじりした。ついでに言うと、「宝石屋かあ」と浩司が言った時、「ブティックね。今時、『宝石屋』って言わないよね」と浩司は和成から笑われた。

胸に下げたリングがないので、今は少々胸にバーベルがきつくあたっても平気だ。考えてみれば、俺達は結婚できないからこれはコミットメントリングだ、だから左じゃなくて右手の薬指にするんだよ、とか、トレーニング中は胸に提げておくといい。と言われていても、ベンチプレスをやるたびに気を遣うならば、ロッカーにでもしまっておけば自分の思うままにトレーニングできたのだし、自分の気持次第でその関係を結婚相当と思えば左手にはめても構わなかったのに、俺は何故そうせずに、律儀にもトレーニング中には胸に提げ、トレーニングが終わるとまた右手にしていたのだろう。
トレーニングの時にはシャフトをチーティングでバウンドさせた時にも変形したり傷つけたりしないよう気を使い、終わってはめ直してもつけなれないリングの感触に、この違和感が関係を自分に意識させるのだと自身を言い聞かせながら。
今は、束縛のない胸と指。眼の前にあるのは、バーベルシャフトの硬い手触り、そして鉄の、血のような臭い。

「『何度目なのよ!』って怒られるんだよなあ」
黒ジャージは撫でても消えないリングの傷を撫でつつ、苦り切った顔で言う。
「買い直してもなあ。新しくしたんじゃ、その時つけたのを大事にするって意味ねえしなあ。そうするとさ、今度は嘘が傷になるんだよ」
とも。
そうですよねえ、と同調顔でうなずくトレーナーの営業の気配を感じつつ、黒ジャージめ、チャラそうな風体の割になかなかいいこと言うじゃないか、と浩司は思う。そして、自分の頭上に渡されてあるバーベルに向き直り、次のセットにかかる。

「嘘をついてるのが苦しくなった」
と和成から告白を受けたのは、クラブのバーコーナーでだった。カズ、カズ、と方々から声をかけられては華麗にハグし返すのを何度か繰り返していた和成が、ショータイムになってダンスフロアーから抜け、集まる人とは反対に、休憩しようとバーコーナーへ浩司を連れてきた時だ。小柄だけどもいい体をした、坊主頭の男がカウンター側で飲んでいたのだが、浩司と和成を見ると、和成には少し笑いかけ、浩司には会釈をして、サブラウンジに消えて行った。
「何君だっけ、あれ」
浩司は確か何度か見かけた和成の友人のその男の名を思い出せなかったが、思い出そうとする努力を諦めて、和成に尋ねた。自分はいつもクラブでは「和成の彼氏」で、名前を覚えてもらえないことが多い。だから、向こうの名前を覚えていなくてもあいこだろうと思いながら。
「ああ」
和成は視線をサブラウンジとは反対側にあるフロアーの方へ向けながら言う。
「タダシだよ」
和成は持っていたグラスをカウンターに置き、指でグラスの腹を撫でる。クラウドで温められた空気に含まれていた水蒸気が形成したグラスの腹の水滴は、留まっていられず、伝って落ちる。濡れた指を振って水滴を振り払うと、和成は続けた。
「俺さ、タダシのことが好きなんだよね」
ああそうか、と浩司は思った。
思い出せない名前がタダシであることへの、ああそうか。そういう関係だったのかと、さっきの笑みと会釈の意味を今解読した、ああそうか。友人ではなかったという、ああそうか。何となく惰性かなと思っていたところへ揃いのリングをしたのは、形から関係をつなぎとめようとしていたのかと今思いついた右手薬指の、ああそうか。
「浩司のことは大事な存在だと思ってる。ただ」
「もういいよ、分かった」
こういう気持ちの離れられ方と伝えられ方は、過去に何度も経験した。すぐに何個か例を思い出せるが、こんな感覚はもう15年以上も前のことか、と、懐かしみさえ覚えながら、浩司は過去の痛手を振り返り、それを現在に転写する。頭の奥がジーンとする。

3レップ目を始める時、何となく手が滑った感覚がしたが、そのまま何とか自分に課した6レップを終えた。バーベルを支柱に戻し、手のひらを見る。マメが潰れて血が出ていた。自分に馴染みの、鉄の臭いが濃くした。

(完)