小説『クラブロンリー』第6章[竜人]

小説『クラブロンリー』第6章[竜人]

第5章[QUICK 5階]から続く

「実は次に電話をかけるまで待てなくて、ついてきた。」

竜人は便所の個室を出ると、隣り合った洗面台で手を洗いながらそう言った。冬の水の冷たさが辛いが、石鹸を洗い落とすまで堪えた。こんな場所でのセックス後に言葉を交わすのは、気恥ずかしかった。

あの夜、歩道橋下の便所で個室にこもり、人が来るのを待った俺は、こうして気恥ずかしさを感じながら言葉を交わすような特定の男を期待していたのではなく、後腐れない排泄行為を介助してくれる匿名の誰かが来るのを予想していた。冬だが、人間の盛りにシーズンはない。

そのうち誰か来るはずだと思ってはいたが、ものの一分もしないうちに扉をノックされたことにおののいた。が、扉の隙間から外を覗いてそれが竜人であることを認めた瞬間の驚きと、こんな所に篭って男漁りをする現場を押さえられたことに対する恥ずかしさに比べれば、大したことはなかった。

今さら恥じてもしょうがない。扉を開ける。竜人が入ってくると、また扉を閉めるのももどかしく、キスをした。竜人は後ろ手にB-3ジャケットを脱ぎ、扉の隙間を隠すべくそれをフックに掛けて、せわしなくベルトを外した。竜人の股間にしゃがみこもうとする俺を、と竜人は穏やかに手で押し戻して制し、俺達はお互いの手による愛撫だけで事を完遂した。

とうに終電の時間は過ぎていて、竜人の家はと聞けば、この沿線でさえない。俺の家の方が圧倒的に近かったのだが、ここに寄るために途中下車したことを白状するのが恥ずかしく、俺の部屋でニ人してどう過ごしたらいいものだか考えつかなかったので、俺達はタクシーを拾うと、また新宿に引き返して飲み直すことにした。

DRAWSTRING BARに戻るのは、あからさまに「デキました」との報告を意味するので、寡黙なマスターが一人でやっているバー『スクラムハーフ』へ赴く。

スクラムハーフは、DRAWSTRING BARからすぐの小路に入って小さなビルが立ち並ぶ一角の、2階にある。マスターは寡黙だが、決して無愛想な訳ではない。にっこりと客を迎え入れ、気持ちよく場を取り持つことに長けている。一方で、人の惚れた腫れたを酒の肴として他人に吹聴することはない、珍しいタイプだ。なので、「噂は音速を超える」と言われる二丁目にあっても、安心できた。

それでも、その場でほやほやの初歩的な情報を竜人に尋ねるのは、我々がついぞ知り合ったばかりという事実を露呈することで気恥ずかしく、俺達はぽつりぽつりと当たり障りのない会話をし、氷で薄まってきた酒をちびちび飲んではまた次のグラスへ、ということを繰り返した。そんな体裁を取り繕ったところで、二丁目でもう長いマスターでなくとも諸事情お見通しだったことだろうが、そこでマスターは変な茶々を入れてきたりも、無言のぎこちなさの潤滑油として世間話を無理やり挿入してきたりもしない。それが故に、入れ替わりの激しい二丁目でもずっとこの店をやっていられるのだろう。軽妙な話術だけが酒場の武器ではない。入るべきところと放っておくべきところの勘所が分かっているマスターを見ていると、この人はセックスも上手いのだろうなと思う。残念ながら、俺のタイプではないけれども、それは向こうとて同様だろう。

一晩飲んでも、俺が得られた竜人についての基礎情報は、そう多くはなかった。眩しいほどの体躯の持ち主ではあるが、肉体労働者でも体育学生でもなく、その肉体は週に4回ほど通うジムで作られたものだということ(よくあることだ。大学を卒業したが就職はせず、今は医学関係の文献検索の会社でアルバイトをしているのだとか)。そして、タツヒトという名前は源氏名ではなく本名であること、同い年くらいかと思っていたが6つ上であること、二丁目のバーでよく流れているようなアイドル歌謡よりもクラブの音楽が好きだという程度だった。
俺が与えた情報も、質量ともに大したものではなく、どこのジムに通っているとか、服はどんなのが好きとか、悠一という名前だが、この界隈でも大学でも愛称は『ユウちゃん』であること、法学部の3年生だが就職活動はせず司法試験の勉強中であること、自分の家はさっき途中下車した数駅向こうが最寄りで、一人暮らしをしていること位に留まった。

スクラムハーフを出ると、全てを曝き出す薄情な朝の光が差し始める中、俺は次があるのかどうか不安に思った。飲むにつれ、やっと回復し始めた俺のそこそこの自信は、薄暗いバーから外に出た途端、雲散霧消してしまっていた。

不安をよそに、それから何回か、俺は竜人と一対一で会った。バーで。竜人の仕事終わりに待ち合わせて、映画を観に。最初の誘い文句どおり、クラブに行ったり、俺の部屋で食事をしたこともある。俺としては、それらはれっきとしたデートのつもりだ。無論、セックスにも及んだ。
しかし、何か膜のようなものが、俺と竜人の間に下がっていて、竜人のコアに触れることを妨げていた。それは、セックスの時、どうやら竜人が入れたり入れられたりということには興味がないようだが、そうした好みの男も少なくないと知ってはいても、淡白な接触で事足りているのだろうかという、体の相性からくる不安でもなければ、竜人が実家暮らしで毎回泊まるのは難しいという事情のせいでもなかった。竜人には友達が多く、多少の取り巻きもいたことから、バーやクラブに行こうという話になった時、いきなりの俺の登場がスキャンダラスすぎて憚られるということでもなかった。何かを諦めているかのような冷徹な孤独を、竜人は身にまとっていた。全てのヴァンパイアを一瞬にして灰にしてしまうような輝く笑顔にさえ、それは見えない影を差していた。

最初、ある程度以上に距離を詰められないことは、チクチクと俺の心を刺した。近づくと消える逃げ水のような、よくある恋愛のパラドックスだと思い、追わなければ距離を縮められるかと、逆にわざと連絡を減らしてみたりと足掻いた時もあったのだが、俺は、やがてそれが何なのかを探索したり、距離を詰めたりすることを自然に諦め、竜人との繋がりを緩めていった。典型的な男性美を芳しとする俺にとっては、竜人の魅力はギリシャ彫刻のようにほとんど普遍的で、それは摩耗したり飽きられたりするものではなかったが、美術品は公共財であり、個人所有に適さないのだと、自分を納得させた。それに、正直に告白すると、その膠着状態に焦れて、他に目移りするようになってしまったのだ。政次のような、ゲイには珍しく、曇りのない能天気と性的魅力を備えた男に。

政次とは、ある夜、MYKONOS LOFTで知り合ったのだが、会うなり「ああ、タイプだなあ。俺とセックスしない?」と誘われて、その明快なあけすけさに、こういう男もゲイの中にはいるものなのだなあと、感慨さえ抱かせた。もちろんその誘いに俺は乗った。淫蕩で、恥を知らない政次の肉欲の業の深さは、何とか竜人の他に興味を持っていくことで竜人と距離を取りたいと思っていた俺にとっては、願ってもない目眩ましだった。

そんな訳で、政次という存在や、その他行きずりの男達の助けも借りて、竜人の服装がB-3ジャケットからGジャンになり、上着の要らなくなった頃には、俺と竜人は、飲みに行ったりクラブへ繰り出したりするいい仲の友達に落ち着いた。QUICKで落ち合うのも、そうした遊びの一月例行事だ。しかしそれでも俺は、竜人の周りにいる友人と並行の一人になることには抵抗があり、無礼にならない範囲で、彼らとは距離を置いていた。

「ああここにいた! 探してたのに。」

いつの間に3階に来たのかと思えば、政次はのんきに言う。さっきよろしくやっていた男はと聞くに、電話番号はもらった、と、あっさりしている。気に入った様子だったのにどうしたの、と一応突っ込んでみると、一口サイズはちょっとねえ、と身も蓋もなく断じる。二丁目もクラブも軽薄で大嫌いと目の敵にしているカッチャンは、よくこれと付き合っているものだと思う。

「竜人見た?」

俺が探しているのはクラブで遊ぶ約束をした一友人なのだ、という意味を込めて、最大限さり気なく聞いてみたのだが、その努力も虚しく、返ってきた返事は
「今日は見てない。いい男なのにね。何だか『向こう側』の男なのよね。」
と慰めを含んでいた。取り繕うのを諦めて、ちょっと留守電をチェックしてくる、と、俺は政次を残し、1階に下りることにした。

3時過ぎだが、ロッカーではこの時間になってやっと入れた男達が、せっせと着替えていた。ロッカー裏に並ぶ公衆電話の一つにテレホンカードを挿入し、自分の電話番号をプッシュする。3回で繋がるということは、メッセージが入っているということだ。暗証番号と*を押す。「2件のメッセージがあります」と、テープが巻き戻され、ビープ音。1件目は、レポートの提出期限が1週間延びたと教える同級生のもの。2件目。無言が続く。耳を凝らすが、かえって上階からの音楽と、QUICKの外でパトカーと救急車のサイレンが複数台続く音の方が気になるだけで、留守電のテープは何も返してこず、10数秒の無音が続いただけで、切れた。

第7章[MYKONOS LOFT 噂]に続く

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