小説『クラブロンリー』第1章 [QUICK]


海岸通りの海側は倉庫街で、零時も回ると人影もない。それに、日曜の夜だ。運送会社のトラックさえめったに出入りしない。路地に車を停めると、俺と政次はドレスコードに合う格好に着替える。今月は黒。政次は金玉がこぼれそうなブラックジーンズのホットパンツに、メッシュの黒タンクトップ。俺はスタッズ付きのレザーベストに黒の薄手のスパッツ。人がいないのにわざわざ車の中で着替えるなどという、まだるっこしいことはしない。車外に出る。政次は靴を脱ぎ、穿いてきたチノパンを下着ごとずり下げる。水銀灯に照らされ、ちらっと、政次のペニスが見える。俺は勃起しかかったので素早く自分のスパッツを引き上げ、ブーツの編み上げ紐を結び直す。

「こんなカッコで通りを歩くの恥ずかしい!」
と首都高下を小走りに渡りながら政次は言うが、今日のコーディネートは全部政次の発案で、何を今さらと思う。それに、そういう時の政次は、クラブに入ってからよりもむしろ楽しそうで、羽根の扇子を振り回す女達と、それを必死で追い回すノンケ男共がうろつく『フリオ・トウキョウ』をさっき車で通り過ぎた時にそれに差し向けていた、冷淡極まる軽蔑の眼差しの持ち主とはまるで別人だ。
俺たちを見たタクシーの運転手が、前の車にすんでのところでぶつかりそうになる。その急ブレーキの音を聞きながら、俺と政次は道路を渡り切り、『QUICK』の前に着いた。

エントランス前の路上にプロジェクターから投影されたQUICKのロゴが走るのを見ると、いつも俺の気分は高揚する。人だかりはもう7、80人にはなっているだろうか。なかなか捌かれずに、むしろ増えていっているようだ。
入場は『STUDIO 54』方式。テーマに合った格好、クラブを盛り上げるのにふさわしい雰囲気の者から優先的にピックアップされる。先頭にいるストーンウォッシュジーンズは、おそらく一晩かかっても入れない。俺達もまともに並んでいたら、運良くピックアップされても、入場を許可されるまで一時間はかかるだろう。俺と政次は、ドアマンのケイジに手を振り、(後で中で)とジェスチャーしてそこを離れ、右隣のビルに近い端に位置する、素っ気ない業務用エレベーターのボタンを押した。

鉄錆色の扉の前で待っていると、七階からエレベーターが下りてくる。俺達の目の前でそれは止まり、扉が開くと、中はまばゆい金張りのゴンドラ。エレベーターガールのクローバー&サファイアがポーズをとって出迎える。テレビの深夜番組でこの前見たそのままのウィッグと衣装だ。クローバーは三センチほどのつけまつげをしばたかせてウィンクしてくる。俺と政次がエレベーターに乗るのを見て、あわてて駆け寄り一緒に乗り込もうとした白人3人組を、サファイアが指でバツ印を作って制し、クローバーがドアを閉じると、「上へまいります」と、元来た七階のボタンを四センチ以上はあるネイルで押す。VIPリストに載っている者以外、この黄金のゴンドラに足を踏み入れることはない。そしてそのVIPリストは紙の上ではなく、クローバー&サファイアの頭の中にある。

「やっぱりこれが正しい入り方よね」
と政次は言うと、俺の頬にキスをする。これがカッチャンの耳に入ったら、俺は東京湾に沈められる。カッチャンがクラブ嫌いで早寝の人で助かった。
金のゴンドラは上へ。クラブは階層化があからさまなディスコと違って自由なスタイルが売りだが、自由と平等とは別概念だ。ここでもエクスクルーシブな別世界は、隠されたドアを限られた者だけのために用意されている。

「7階、『リュウグウ』でございます」
とクローバーのうやうやしいアナウンスに促されて、俺と政次はエレベーターを降りる。降り際、政次はクローバーとサファイアそれぞれにチップを渡すのを忘れない。バブルは去ったが、ここでは依然、羽振りの良さがスタイルとして生き延びている。
エレベーターのドアが閉じる。俺と政次は前へ進み出、ほの暗い中、スポットライトで照らされた朱塗りの太鼓橋を渡る。最初見た時には凝った趣向に驚いたものだが、これは目黒の結婚式場のトイレがイメージソースなのだと後から知った。橋を渡ると、すぐにシアンとマゼンタのネオンに彩られた空間。その端々に目配りをしているカンタを発見する。以前は二丁目のDRAWSTRING BARのスタッフだったが、ここでのフロアーマネージャーぶりも板についてきた。

「あら~、おはよう! ナイスガイ同士でご入場ね!」
カンタの挨拶は、ウェルカムシャンパンを持って来いというフロアーボーイへのコマンドでもある。すかさず持ってこられたドン・ペリニヨンの88年がクープグラスに注がれる。俺と政次は腕をクロスさせてそれを飲み干し、またキスをした。今度は、舌を絡ませあって。
フロアーを一通り回り、挨拶廻りを済ませる。元消防士が売りのトシは、新しく二丁目に飲み屋を開店する準備中だとか。トシという名前のゲイが東京だけで一体どれくらいいるのか見当もつかないが、俺達の間でトシといえば、このトシが一番だ。目立ち度でも、セクシーさでも。ゴーゴーのタカユキは相変わらずライバル心むき出しのような目で素人の俺を睨めつけてくるが、その視線には性的な興味が潜んでいることを、俺は知っている。そういう男に対しては、挨拶するようなしないような、会釈に見せてさらっと視線を次の瞬間にはかわす所作をしておくに限る。顔見知りともいえないような間柄の人間と、何かのきっかけで知り合いにならないとも限らない。ゲイコミュニティーは狭いのだ。その時、気まずい思いをしないためにそういう仕草をしておく術を、俺はこの一年間で身につけた。
ラバースーツのリンダに鞭打たれている全頭マスクのマッチョ犬の正体が、世田谷のタケシであることを、多分政次は知らないはずだ。タケシは毎土曜日は実家のラーメン屋を手伝っていることになっているはずだから。そして今日はリンダの網タイツからすね毛がはみ出ていないことを確認して安心する。

政次は帰りの運転があるからと、酒は律儀に最初の一杯だけにしておくと言う。俺は景気づけにドン・ペリニヨンの2杯目を飲み干し、4階のメインフロアーに下りるべく、階段を目指した。エレベーターはリュウグウと一階、それに6階の『The Lust』(The Lustはノンケの『特別ゲスト』が安全ゾーンとしてダラダラしているソファーラウンジで退屈極まりなく、俺達には何の魅力もなかった)を繋ぐ用途だけで使われているので、ダンスフロアーへ行くには、階段しかない。5階の回廊巡りは、もっと時間が遅くなってからのお楽しみに置いておく。

4階まで下りると、ダブ系の禁欲的でエッジーなハウスサウンドが、コンクリートの壁に反響している。盛り上がるのは、もう少し後だろう。こういう雰囲気も嫌いではないが、ひとまず三階のサブフロアーまで下りることにする。
3階では、音はメジャー志向だ。ハウスに限らず、ヒップホップやテクノなど、様々なジャンルのダンスチューンがかかる。4階に比べてダンスフロアーの面積は小さい。半分をバースペースに割いているからだ。ここにはもうクラブらしい賑わいがある。

C+C Music Factory [Things That Make You Go Hmmmm….]に、Heavy D & The Boyz [Now That We Found Love]で軽く体慣らしをしつつ、ドアマンのケイジにピックアップされ入場を許された男達が1・2階のロッカーに日常を預けて上がってくるのをチェックする。
ケイジの目は確かで、さすがに入場客のセレクションを任されているだけはある。ケイジはゲイナイトというカクテルを仕立てる名バーテンダーだ。華となる人々と、バランサーとしての一般人との絶妙なブレンド比率を心得ていて、美味しく酔えるクラブの時空を作り出す。そして、カクテルは酒が濃ければいいというものではないということをきちんと心得ていて、香味が引き立つように割り物を入れてくる。具体的に言うと、レザーウェアがゴージャスな筋肉を引き立たせているマッチョ、ブラックのフェザーコートのドラァグクイーンといった華達だけでなく、ドレスコードまるで無視のワンショルダーのスウェットシャツのネエサンやら、田舎から何時間かけて来たのかと思わせる渋カジグループなんかも、ちゃんと配分するのだ。

別の言い方をすれば、ケイジは宇宙空間を創造する神に近い。星が輝くには暗い空間があってこそだが、宇宙の闇とは何もない真空ではなく何らかの暗黒物質があるはずだと予言する宇宙物理学者を裏付けているかのように、空間を埋めるやり方を心得ている。
さっき入口で頑張っていたストーンウォッシュジーンズが上がってきた。バランサーとして入場の栄光を掴み取るだけの運は持ち合わせていたらしい。横切るその後ろ姿を見送ると、左ポケットに青のバンダナを挿している。
「へえ、あれでタチなんだね」
と、それを同時に認めて政次は言う。ハンキーコードを理解しているところから察するに、ストーンウォッシュはああ見えて手練なようだ。地味目に見える奴に限ってそっちの方では派手にやらかしているというのも、ままあることだ。

しばらく入場者達を眺めていると、ヘアメイクアーティストのカイトに手を引かれて、Janet Jackson [Rhythm Nation]風のコスチューム姿が目の前を横切っていった。

多分女だ。常連のカイトの連れならば、というケイジの特例措置だろう。まあ、雰囲気を壊さないでおとなしくしているなら、見逃してやろう。髪を全部キャップに押し込んで、メークまで落としてまでゲイオンリーのクラブに来たいとの、その心意気に免じて。

2 Unlimited [Get Ready]がかかった。そろそろメインフロアーに上がるべき頃合いか。隣のネエサンはここぞとばかりにフューシャピンクの羽根扇子を振り回す。そんなものはQUICKの隣の運河にでも投げ込んでくればいいのに。扇子も、嗜好も。

壁際の階段を上ってメインフロアーの4階へ。QUICKになる前、ここは海運会社の倉庫だったらしい。なので、空間をなるべく広く取るため柱は少なく、壁はコンクリートの打ちっぱなしで、基本的に簡素な造りをしている。ひらけた空間が必要なクラブにはうってつけだ。尤も、『フリオ・トウキョウ』支持派には、ここは「あんな監獄みたいな貧乏くさい所」と評判芳しくないらしいが、当然彼らは浦島橋の向こうの村の住人、リュウグウの存在を知らないのだ。

最初QUICKに来た時には興奮した。海外のクラブにも行ったことがないのに「日本にもこんなところがあるなんて」と思ったものだ。それまでは、新宿の古い雑居ビルの地下でひっそりと週末にだけ開く『MYKONOS LOFT』で満足していた。さらにその前は二丁目の『DRAWSTRING BAR』の、6畳弱ほどの空間で踊っていた訳だが。

第2章『MYKONOS LOFT』へ続く

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