ブックレビュー グレゴリー・デイヴィッド・ロバーツ


シャンタラム(上)


(★★★★★ 星5つ)

長い長い小説。この文庫本1冊にして600ページ超えだが、これはまだ上巻で、中・下と3巻から成る。オーストラリアで収監されていた強盗犯が脱獄、ニュージーランドの偽造パスポートでボンベイ(今はムンバイと称される)へ行き、スラムで生活しながら(無資格の)診療所を開き…、という舞台設定を目にすると、人によってはまず「ああ、そういう設定のバックパッカー向け暇つぶし本だね」と軽く思って興味をそそられないかもしれない。が、それがほとんど作者のバイオグラフィーに一致し、多くが事実に基づいている自叙伝的小説だと知ったらどうか。

そうした”based on facts”の強みを最大限に活かしてこの小説は書かれている。面白いのは、この作者のプロフィールを聞くと、どうやって脱獄したのか、そしてボンベイまで行けたのか、という疑問がまず挙がるが、そこは後回しになり、ボンベイにいる事実からそこでの暮らしをスタートにしていることだ。それで一気にエキゾチックな世界へ読者を引き込み、先の疑問が1つの牽引力になって中盤まで引っ張っていく。
そして引っ張って疑問が満足させられた時点では、読者はすっかりもうこの小説の魅力にどっぷり浸かっているので、もっとほしいもっとほしいと、スラムの臭ってきそうな濃厚な描写(それもまたこの小説を読みたいと手にとった人の多くが望む描写だ)に嘔吐感を覚えたとしても、欲するままに進むことになる。まるでドラッグ中毒者のように。

そしてこの小説の強みは何と言っても、体験したものでなければ知り得ない描写のリアリティーだろう。多少くどすぎて、長い小説が余計長くなっていしまっている感じを受けるところもあるが、まったく異型の文化に戸惑いながらも溶け込んでいく様、続けざまに起こるカルチャーショック的な出来事の数々を思えば、それらは書くに値するので書かれているのであって、長くはあるが過剰ではない。
それに、その長さのおかげで、たくさん出てくる登場人物をゆっくりと頭に入れて小説世界に馴染むことができるから、これはかえって美点であり、長いけれども必要な長さといえる。

さて、上巻を読んで引き続き興味は持ち続けてはいるが、濃厚で胸焼けしそうだったので、別の本を読んでから中、下と進むことにしよう。しばし休憩。(2012/6/27 記)

シャンタラム(中)


(★★★★★ 星5つ)

中巻でも濃密な世界はそのまま、むしろ闇へと引きこまれてく様はますます深くなる。人間には善人と悪人とがいるのではなく、人間とは正邪が同居する生き物であることをまざまざと描き出す。そして、上巻よりも更に過酷な運命・凄惨な有様で人は死に、思いがけない人物も死んでゆくが、そのあたりは作者の実体験よりも小説仕立てにしようとした力が大きくはたらいたのだなと思わせる。が、よくできていて、虚構感で興味が削がれることはない。

小説だとしても、闇社会に触れたことがなければ書けないような描写もあって、興味深い。そして、そうした闇社会において(今はどうだか分からないが当時の)ボンベイがハブとして世界とつながっている様を読むと、日本の一般社会がいかに生っ白いかを思い知らされる。

相変わらず長く延々と続き、どこでどう終わってもいいような話になってくるが、これが下巻になるとどうなるかが楽しみだ。(2012/7/18 記)

シャンタラム(下)


(★★★★☆ 星4つ)

中巻を読み終えて、またひと息つき、まったく別の人の別の作品を一つ読んでから、この巻にかかった。

長い長い物語の終章は、主にアフガニスタンが舞台。アフガニスタンというと、土埃と血と銃と爆弾くらいしか思い浮かばないのだが、ほぼそのイメージ通りの世界が展開される。 あまりにもその連続になると、その中で渦巻く人間関係の確執などを追うのが途中で嫌になってきてしまったのだが、嫌にならせるのが目的なのではないかと思うようなその荒涼たる世界の連続展開に加え、インドに帰ってからの展開も少々三文劇画的で、そのドラマ演出がかえって気を殺ぐ面もないではない。会話を通じて示唆に富む表現をちりばめるやり方は少なくなって、結末(らしい結末はないのだが、とにかく終端)へ向けて物語をドライブさせる様は、上中巻からすると強引で先を急いでいる様があからさまな感じがする。

が、やはりストーリーはよく練られていて、その辺りは読む者の気を惹きつけるやり方を心得ている。光景のエキゾチックさ、濃厚さの魅力も上中巻のテンションのまま保たれている。そこがあるのと、どうせここまで読み進めたのだから読みきってしまいたいという気持ちが、読書を進める原動力になる。

全体を振り返れば、やはり長い。縮めにくいところはあるだろうけれども、縮めて上下巻くらいで納めた方が良かったようには思うが、この上中下の三巻を読んで徒労だったとは思わない。壮大でディープ、かつ現実味を帯びた物語を求めているなら、読んでみるだけあると思う。こんな世界を描き出せる人はなかなかいないと思う。単なるハードボイルド脱獄ドンパチではない驚異の世界。そして、犯罪を犯した者・闇社会に生きる者も、単に唾棄すべき屑ではないのではないかと、普段鼻つまみ者の扱いを受けている人に思いをいたすことになるのも、この小説を読みきった人に与えられる一つの果実だ。

その長さと延々と続く光景の荒涼たる様に星4つとしたが、物語全体としては極めて満足、星5つ。(2012/8/12 記)