ダークサイド I-2 上辺の優雅と自由


『ダークサイド I-1 Born To Be Lonely』からの続き)

子供にさせること

習い事として当時子供にさせることといえば、筆頭はピアノ。どういう風にしてそれが決まったのかは思い出せないし、形式的にでも俺が「やりたい」と言ったのかどうかも分からないが、ともかく、ピアノを習わされた。
始めたのは確か4、5歳の頃だったと思う。中学に上がる前後に先生を変えるまでは、週1回のレッスンが嫌で嫌でならなかった。理由は2つ。1つは、レッスンが土曜の午後にあり、友達の遊びの誘いを断って行かねばならなかったこと。もう1つは、先生がゴリラのような容貌の、生徒にすぐ手を上げるヒステリー性の女性で、恐ろしくてならなかったことだ。
このピアノ教室には妹も通っていたが、カルチャーセンターの1室で行われていた教室に入るドアの前で、このゴリラピアノ教室に入る前には妹と目を合わせ、意を決して足を踏み入れねばならなかった。

優等生

小中学校では、優等生だった。塾には行かずとも、勉強はできたが、家庭内では、「教養をつける」という名のもと、常に教育が為されていた。常に模範であることは、恐らく長男であることとも関係していただろう。テーブルマナーの教育が一通り済むと、食卓は議論のテーブルとして話が飛び交うようになり、思考を高める教養醸成の場となった。

日常では適度に友達と遊びもし、夏休みには母方の実家に避暑に行って親戚の子供とも遊んだし、その点、何ひとつ生活に喜びがなかったということはない。物は何でも良い物が買い与えられていたし、本も潤沢だった。
親の教育方針において、「子供は優雅に育てましょう」というのがあり、それは少なくとも物質的な実践されていて、物質的なことで我慢をしたことは何もなかったと思う。しかし、だからといって物心満ち足りてすくすく、という運びにはならなかった。そこには常に「親にとって良い子である子供に対しての褒美」という条件付けが、常につきまとっていた。

条件付き・限定付きの賞賛とかわいがり。理想的上流インテリ家庭を実践するための、そして、親の所有物としての存在が、子供であり、柵やレールは周到に敷かれ、周りは厳重に囲われていて、生かされるのはその中でしかなかった。そのレールを通じて入っていく家庭への門には“Arbeit Macht Frei”と書かれてあっても、不思議ではなかった。

母親は特に、自分の提供したこと(家事、子育て等々)に対して「正当な報酬があるべき」と思うふしがあり、子供に対しても容赦がなかった。愛は無償であるべきといっても、人間たるもの感謝だの何だのという見返りがほしいと思うのは自然なことだろう。ただし、母の求める報酬の「正当」の判断基準は、「自分が満足する基準にそって子供が行動するかどうか」であった。
例えば、自宅で児童向けのボランティア図書館をやっている家で本を借りたが、返却期間を過ぎたとする。そうすると、夜の8時9時であっても、小学校低学年の子供を外へ放り出し、詫びを入れて返してくるまで納得しなかった。子供の夏休みの絵日記の絵を見て、背景が描かれていないと、「現実風景に空白はないはずだ」と言い、白い部分をすべて埋めて描くまで承服しなかった。とにかく自分が要求することは相手が誰であっても(たとえそれが子供でも)自分基準で満たされなければならない、そういう主義のdemandingな人間だった。

蔑みと嫉妬と

他人、特にサラリーマンや、血縁に多かった医者・大学教授以外の親戚は、両親にとって、蔑んだり欠点をあげつらうための対象でしかなかった。よく父親がサラリーマンを馬鹿にするのを耳にしたものだし、母親は親戚縁者の悪口ばかり言っていて、夏休みに実家に帰ると、兄弟のことを悪く言った。母親は3人兄弟の真ん中で、大学助教授の兄(後に教授になった)に対しては「助教授どまりで子供が作れない」とチクチク嫌味を言い、医学博士号は取ったが医者にならなかった弟は、まるでダメ人間扱いだった。

まだエスタブリッシュされたクラスにいたわけではなかった両親は、自分より上のクラスの者を羨んでいた。俺が小学生だった頃、通っていた小学校は、いわゆるニュータウンの中にあったモデル校で、大きく分けて2つのエリア(=クラス)からの子供がいた。団地住まいのサラリーマン家庭の子と、1区画1区画が広く企画されて宅地分譲された地域に住む非サラリーマン家庭の子だ。
俺の母親が語っていたことには、児童の母親達の交流は自動的に団地族と宅地族とに分かれていたらしい。つまり、地域=クラスという線引きがあったわけなのだが、うちは団地住まいだったが弁護士の家庭で、異質な存在だった。まだ、弁護士が国民1万人に1人程度の人数だった時代のことだ。その結果、母親は宅地族のソサエティーに「特別に入れてあげる」と言われていたのだという。また、そんなあけすけな事情を平然と小学生の子供に吐露する母でもあった。

学生運動時代を経た世代で思想的に左派寄りであった両親は、アッパークラスを志向する一方で、ブルジョワ的なものを忌み嫌う思想との間で、アンビバレントな状態にあった。「自分は両家の出なのだから本来持ち上げられるべき」と考える母親の強気と父の上昇志向は、子供も含めて粒ぞろいにしておいて、「彼らとは違う」という意識で周りから自分達をdistinguishしようとしていた。そのことは、強固に家庭をコントロールする意志を強めた一因だろうと思う。

中学時代

大衆から抜け出てdistinguishされるべき計画は、まず家を買うことが、大きな実行転機となる。俺が中学に上がる頃、大阪の某住宅地に土地を購入し、母親の設計で家を建てた。帝塚山や兵庫の芦屋ほど名は知られていないが、プールはおろか個人で音楽堂を持つ家があったり、ブガッティーが通ったりする丘陵地の一画に8LDK(地下室・ユーティリティー含む)の家を建て、後に隣地を買い足した。掃除洗濯はお手伝いに任せ、血統書付きの犬を飼い、家のリフォームができるくらいの予算で犬舎を作った。

両親の口からは、「一流」という言葉がよく出た。無論、息子・娘も一流でなければならないのは、彼らにとっては必然だった。中学に上がる時にオーディオコンポを買ってもらったが、(当時の大卒初任給の2.5倍ほどの値段だったように記憶している)
「学校の定期テストで平均点90点以上を取らなければレコード・カセットテープはすべて取り上げる」
という条件付きだった。その条件をクリアしていても、90点未満のものがあると、詰問があった。

新しい家のことを記憶から掘り出す時、このことは一つ書き残しておかねばならない。門扉横に取り付けるオーダー品の金属製のポストが届いた時のことだ。開封を母から言いつかった俺だが、子供にとっては重量物で、取扱に苦慮した。その挙句、梱包から出した時に、ポストの角をすねにぶつけた。ぶつけ方はひどく、俺のすねは切れた。初めて自分の骨を見た。白い骨が見えたあと、周りからすぐにじわじわと血が噴出してきたのを覚えている。しかし、母が一番最初に心配したのは、俺のすねではなく、オーダー品のポストに傷がないかどうかだった。そして、そんな傷だったが、医者には診せてもらえず、その場で包帯で縛っての処置で終わった。もうじき夕飯の支度の時間だったから、が、後年母の口から出てきたそれに対する言い訳だった。その傷は、肉体的に今も俺の左すねに残っている。心のことは、言うまでもない。

詰問

詰問は、キッチンにあるサブダイニングのテーブルで夜行われた。合理的な対策を考えることよりも、責めることが自己目的化していた。そのことが分かっていたし、何故を問い詰めたところで、取ってしまった点数はしょうがないので、黙っていると、黙っていることを責められる、そんなことが時折あった。
「何故そうなったのか」という、一見理性的な問いであったとしても、実はその「何故」の掘り下げが誤っていて、結局何を間違ったかではなく、「俺が悪かった」というところにしか帰着を求められていなかった。そのバカバカしさが分かっていたので、黙っていると、今度は根比べになり、2時間、3時間をあたりまえに費やした。トイレに中座することも許されなかった。

しかしそれとて成績の実態はどうかというと、一番成績の悪かったものでも、分布上は上位3%にはあった。が、両親にとっては、欠点があることが許されざることであって、自分達の要求が満たされないことが、客観事実よりも重要だったのだ。
そんな条件下、ある日数学で70点台を取った。両親の追求(というか非難)は推して知るべしであろう。さんざんやられた後、翌日学年の順位を聞いてこいと言われて、聞いたら俺が1番だった。テストが異常に難しすぎて、平均点は30点ほどだったのだという。それを告げると、母親の反応は「あらそう?」、父親は無言だった。人の非は責めても、自分の不利は認めず受け流す。両親はそういう性格だったのだ。

※ “Arbeit Macht Frei” =ナチの収容所の門に掲げられていたスローガン。「働けば自由になる」の意。
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