ダークサイド I-9 死んだ父と遺った母


『ダークサイド I-8 暗闘の果て』からの続き)

父の葬儀

新幹線で大阪に入り、そこから電車を乗り換えて芦屋駅で降りた。落ちぶれたくせに芦屋を選ぶというのが、父だなと思った。俺より先に父の家に行っている妹に電話をかけて場所を聞いた。
マンションは駅から近く、部屋に入ると広くはないがまずまずは暮らしやすそうな部屋で、別荘で使っていたソファーやライティングビューローデスクなど、見慣れた家具が置かれていた。

叔母(父の妹)と叔父(母の弟)が来て、いろんな雑事をこなしたあと、叔父は父の使っていたネクタイを「これは使えるから持って行く、これは要らない」などとせっせと選別した。叔父はよくも悪くも徹底した現実派で、義兄の死は自殺であるということに頓着するタイプではなく、かえってそれは気詰まりになりがちな場の救いになった。叔父はきっと父の自殺方法がネクタイで首を吊ったとかであっても、使えるネクタイなら持って行くだろう。

実際の自殺方法は飛び込みだったが、具体的には踏切から身を乗り出して快速電車に頭部を接触させ、後頭部損傷による死だったと聞いた。棺の顔部分にある扉は閉じられていたが、俺が到着する前に叔父は顔を見たそうだ。
「後ろは潰れてたけど、顔はきれいなもんだった」
と言った。
「葬儀屋が運んで来る時にガタガタ動かしちゃったから、ちょっと中で(配置が)ズレちゃってるかもしれないんだけど、(顔を)見るか?」
と叔父は俺、母、妹に聞いたが、母の
「あたし、見れない」
との一言で、扉は最後まで開けられることはなかった。俺は父の顔としてそれを見るのが嫌だというよりも、ズレて後頭部がパックリ開いた死体を見る可能性が嫌で、やはり見ない方がいいと思った。叔父は「自分はそういうのを見ても平気だった」と自慢しているようだった。自分が医学博士であることの威厳を示したかったのかもしれない。昔から叔父は、残酷とかグロとかいったことに対して挑戦的な人で、医者だった祖父譲りのそれは変わっていないなと思った。

遺書があって、それを見た。財産分与云々という法律的に効力のある遺言ではなく、最期の手紙としての遺書だ。母や妹に対しては多く文面が割かれてあって、いろいろ述べた後、最後に「○○○(母の名)、××(妹の名)、△(俺の名)を愛しています」と書かれてあった。そこに自分の名があったのを見て、人が死を決意した時に前に書く文章がどんな重みがあるのか、考えてはみても、悲しみや無念、慚愧といった感情は沸き上がってこなかった。それよりも圧倒的に死の事実を感じるのは、置かれていた棺桶の方だった。しかし棺桶を見ても、そういった死を悼んだり、故人を惜しむ気持ちはやはり生じてこなかった。

時間があったので、夕方、父が飛び込んだ踏切を見に行った。家から駅とは反対方向に歩いていった所にある踏切。見通しのいい直線で、踏切から電車の進行方向の地面を見て、血液の付着でもないかと見てみたが、人が死んだ形跡は何もなかった。よく事故現場であるように花を手向けたかどうか、覚えていない。
通夜の晩は棺桶のある部屋で寝て過ごし、翌朝から葬儀があって、俺は一応長男なので、形としては喪主ということになった。葬儀の準備もしなければ葬儀費用も出さなかったが。葬儀には身内の他訪れる人もなかったが、唯一通夜の晩に、俺の中学の同級生で長年の友人であるKが弔問に訪れてくれた。他は、話をややこしくするような怪しい人物も債権者も訪れることはなかった。

葬儀は至って簡単だった。出棺し、焼き場へ行き、焼く間親族で食事をし、骨を拾って終わった。父の部屋は母と叔父叔母が片付けると言う。ネクタイにせよ、死顔にせよ、葬儀の準備にせよ、俺はいつも煩雑なことについては蚊帳の外で、ただいつもきれいにトリミングされたことだけが眼前にあった。その状況を母や妹、叔父叔母が「あいつは何もしないで」と恨んだのかどうなのか、分からない。ともかく、父の部屋をクリーンナップすることは、俺にとっては雑事以外の何物でもないので、助かることは助かった。
「やっとくからいいよ」
「じゃあ申し訳ないけどお願いします」
で済んでしまい、俺は東京に帰った。骨は大阪にあるらしい父方の家系の墓に入ったのだが、場所がどこにあるのか、今でも知らない。

インパクトから来る記憶の曖昧

突然訪れた父の死は、俺にとっては長年のわだかまりの消極的解決であり、自分の暗闘の歴史にピリオドが打たれたということだったが、晴れやかではなかった。しかし、父が生きていたとしても、今後も面倒は生じ続けただろうから、その仮定条件の下でも晴れやかな解決などはなく、気持ちのよい解決があり得ないのならば、幕切れのこうした早い訪れはマシだったというか、その言葉が悪ければ、より害の少ない(less harmful)ことだったと思う。

しかし、パートナーTの死からわずか8ヶ月でまた親の死に向かい合い、その2番目の死が自殺であったことは、かなり神経を摩耗させもした。近親者の死は、哀悼の意が生じなかったとしても、意外に大きく感じられるものだ。こうした状況下で、新しい仕事も自分の性に合わない不遇が続き、自分自身の体制を立て直す作業が続いた。
結局、俺は初めて働き出してから、5つの会社を渡り歩き、勤めた会社は全部で6つ。その数は確かなのだが、司法試験の勉強を辞めて東京に戻ってきて以降、「これこれは○○年」という記憶が曖昧になっている。職歴という一般的な意味の履歴としては書き置きに頼って書けるのだが、パーソナルライフのライフイベントでの出来事は日記などに記しておかなかったので、社会的な履歴とは時期的に微妙に食い違って記憶されていたりする。

『ダークサイド I-10 その後の母』へ続く→